修道士処女の破戒

 三方を本棚に囲まれた書斎で、一人の修道士が熱心に本を読みふけっていた。
 春の木漏れ日に照らし出された面は、見る者全てが息を飲むほど美しい。
 彼の名はロレンツォ。
 今年で二十三になる。若いながらも院長を務める青年だ。
 不意に翼の風切り声を耳にして、彼は本から榛色の瞳を持ち上げ、窓外を見た。
 陽光を黒く大きな影が遮ると、人と同じほどの鳥の足が――正確には鋭い鉤爪が、窓枠を掴んだ。
「いつもとんでもない所から現れるね、お嬢さん」
 ロレンツォの溜息まじりの声に応えるように、一人の少女が滑り込んでくる。
 年の頃は十三、四。黄金の髪に、翠玉の瞳、陶器のようにしっとりと滑らかな肌……幼さは残るも意思の強さが滲み出る、愛らしい少女だった。
「ごめんあそばせ。私、ご高説を聞くだけの忍耐も知恵も持ち合わせておりませんの」
 彼女は悪戯っ子のように目を輝かせると高飛車な様子で、そんなことを言った。
 馴れたように手に持っていた上掛けを身体に巻き付け、翼を隠し、読書をしていたロレンツォのテーブルに飛び乗ると、彼の瞳を覗き込んだ。
「そう突っかかるものじゃないよ。自由奔放さは、君の美点だと理解はしているんだから」
 肩を竦め、ロレンツォが再び本に目を戻せば、少女がその書籍を取り上げる。
 彼女は、ふん、と鼻を鳴らすと、読むでもなく、パラパラとページを捲りながら、唇を尖らせた。
「思ってもいないくせに」
 厭味ったらしい物言いに、ロレンツォが眉間に指先を押し当てる。
 少女――マリナは、本をテーブルに放って、腕を組み、言い過ぎた、と顔を強ばらせた。
「僕もまだまだ修行が足りないなァ」
 思わず噴き出した彼は、訝しげにするマリナに続けた。
「小鳥一匹魅了できない」
 ――優れた聖人は多くの動物に好かれる。
 マリナは聖人伝の話を思い出し、さらに自分が鳥扱いされたことに気付いて顔を真っ赤にした。
 拳を振り上げる。
 それをロレンツォが掴んで止める。
 子供のようにじゃれあう二人は……ふいに、目を見合わせると、どちらともなく手を引いた。
 マリナの頬は心無し、先ほどよりも朱に染まっていた。
 ロレンツォは気を取り直すように咳払いすると、深々と椅子の背もたれに寄りかかり、腹の辺りで手を組むと、言った。
「君の好きにして良い、とは言った。特別だからと閉じ込めておくのは嫌だからね。が、自分の特異性を今一度、自覚して欲しいな」
「…………わ、分かってるわよ」
 ほどけかけた包帯から足の鉤爪が覗いていることに気付くと、彼女は慌てて足を引き寄せ包帯を巻き直す。
 有羽人――彼女は、天使の題材ともなった種族の一人だった。
 人と異なるのは翼と鳥足だけではない。
 例えでなく、髪は黄金であり、瞳は翠玉、爪は真珠だった。
 歩く宝石である彼女らにとって地上は危険な場所だ。そのため聖職者たちが彼女らを保護している……
「それで? 婿探しは順調かい?」
 唐突に投げかけられた問いに、マリナの手が止まった。
 雌しかいない有羽人は十三、四歳になると、伴侶を求めて地上に降り立つのだった。
 が、いつまでも天上に戻れない場合は、羽根を失い全くの人と成り果てる。
「こちらに来てすでに半年――――マリナ?」
 無言で俯いていた彼女は身体を捻ってロレンツォに向き直った。
 そうして暫く逡巡してから、上目遣いに彼を睨め付け、その頬を両の手の平で包む。
「ん……ッ」
 口付けようと寄せられた唇を、ロレンツォの指先が押しとどめた。
 マリナの顔に哀しげな表情が過ぎったが、それも一瞬で、彼女は柳眉を吊り上げると、声の限りに吠えた。
「…………あなたなんて大嫌い!」
 踵を返す。窓へと向いた足は一瞬の逡巡の後、扉へ方向転換した。
「それは奇遇だな。僕も――――」
 バタン! と扉の閉まる乱暴な音が、ロレンツォの言葉を叩き斬る。
 遠ざかる足音……ロレンツォは鼻から息を吐くと、何事もなかったようにテーブルに放られた本を引き寄せた。
 が、不意に、マリナの唇に触れた指先へ目線を落とすと、吸い寄せられるように顔を寄せた。
 食むようにキスを落とす。
 がらんとした部屋に、深く長い溜息が落ちた。

     * * *
「知ってるくせに! ……知ってるくせに!!」
 ツツジやアザレアなど、色とりどりの花の咲く修道院の中庭を、マリナは足を踏みならして歩いた。
 はっきりと告げたことはなかったが、彼女が夫にと望んだのはロレンツォだった。
 しかし彼は頑なに彼女の想いに気付かないふりをする。
 教皇も愛人を囲う昨今、還俗して結婚すれば問題にすらならないだろう。
 にも関わらず拒絶される理由は……マリナは思い至る考えに、ツン、と鼻の奥に微熱を感じた。
 視界が滲む。
 考えを振り払うようにして、更に歩く速度が加速する。
――その時だった。
 悲しみにうち沈んでいたマリナは、前方から来ていた男に思い切りぶつかった。
「だ、だだ、大丈夫ですか!?」
 盛大に尻持ちを付いたマリナに、僧服を着込んだその人は、飛び上がった。
 男の年の頃はロレンツォと同じか少し上ほどで、人の良さそうな雰囲気の男だった。
 彼が連れていた、鋭い牙の痩せこけた犬が三匹――教会の番犬だろう――、興味深そうにマリナに鼻を寄せた。
 青年が、小さく目を見開く。
 マリナは一瞬きょとんとし、ずれた上掛けの合間から羽根が見えているのに気付いて、慌てた。
「あなたは……ああ、逃げないで」
 腕を掴まれ震え上がるマリナに、彼は「オレはノノスと言います」と、穏やかに告げた。
「ロレンツォからあなたのことは窺ってます」
 振り返ったマリナは、じっと見定めるように彼を見た。
 僧服も靴も上等なものだ。
「頼りなく見えるでしょうが……これでも副院長なんですよ」
「そ、そうだったの。ごめんなさい」
 苦笑を零すノノスに、マリナは勢いよく頭を下げた。
「それで? そんなに怒って、どちらへ?」
「そ、れは……ロレンツォのいないところ」
 俯いたまま、ぼそぼそ告げれば、ノノスは目をぱちくりさせた。
「え……喧嘩でもしちゃったんですか?」
 頬を膨らませるマリナに、彼は微笑を零す。
「ロレンツォは優秀だけど生真面目すぎるところがあるから。あなたを愛していても、一度は婚姻を諦めた身、なかなか決意がつかないんですよ」
「あ、愛って」
 驚き、顔を上げれば、彼は首を傾げた。
「え? 違うの? てっきりロレンツォは、あなたの夫になりたいと思っていると……」
「…………ほ、本当?」
「そして、あなたも、ロレンツォを婿に、と望んでる」
「わ、わわわ私はッ」
 にこやかな指摘に、ボンッと音を立ててマリナの顔が紅潮した。
 わなわなと唇を開閉させた彼女は俯いて組んだ手を無意味に動かす。
 束の間の沈黙の後、彼女は問うた。
「ね、ねぇ……さっきの、本当? ロレンツォがわ、私を……そ、その、あ、愛、って」
「もちろん。彼はあなたを愛してますよ」
 ちらり、と真偽を問うて目線を上げれば、ノノスが深々と頷いた。
「でも……一度も好きだって言われたことないし。さっきだって嫌いだ、って」
 自分で口にした言葉に打ちひしがれた様子のマリナに、ノノスは顎に手をやると、うん、と低く唸った。
「じゃあ、どうでしょう? 恋は駆け引きと言いますし……ここは一つ、ロレンツォの想いを試してみませんか」
「試す?」
 訝しげにするマリナに、ノノスは噛んで含めるように告げた。
「そう。あなたは誘拐されたように振る舞うんです。その時のロレンツォの反応を見れば、彼がどれだけあなたを心配し、愛しているか知れるでしょう? 協力しますよ」
「確かに……そうだったら、良いけれど。でも、もし私のことが好きじゃなかったら」
「その時はロレンツォに一泡噴かせるんです。例えば一日二日謹慎して貰う、とかね」
「え……」と、思わぬ言葉に目をぱちくりさせれば、ノノスは淡々と言った。
「あなたが『気にくわない』とロレンツォに対する不満を教会に告げれば、つれない彼に一矢報いることができますよ」
「そ、そんなの悪いわ!」
「悪い? 何で? 彼がもしあなたを好きでなかったら……彼はあなたの想いを知っていて、弄んでいることになるんですよ?」
 マリナは言葉を詰まらせた。
 ふとした瞬間に好意を感じることがある一方、マリナが想いを示せばのらりくらりとかわされてしまう。……恨めしいと思わないでもなかった。
「あなたが許す旨を教会に告げれば、彼は許されますし。大した不満でもなければ、さして酷い処分を受けることもないでしょう」
「確かに……そうかも」
 マリナはぎゅっとスカートの裾を握りしめた。
 暫く考えを巡らせれば、先ほどのことが思い起こされ、好意が攻撃的に燃え上がる。
 軽く首を振って顔をあげ、マリナは悪戯っ子のような目をノノスに向けた。
「分かったわ。私、あなたについて行く」

 ――その夜、ノノスはマリナの代理として、ロレンツォを告発した。
 ロレンツォは天から預かった有羽人を暴行した罪、加えて姦淫の破戒により破門された。
 数日間の裁判中、彼は沈黙を貫いたと言う。
 ……ノノスに唆されたとマリナが知った時には全てが遅かった。
 彼女はロレンツォの罪を弁解することも叶わず、そのままノノスの預かりとなった。
 ――幽閉されたのである。

     * * *
 礼拝堂の尖塔の最も天に近いところに、マリナは一匹の犬と共に鎖で繋がれていた。
 修理の途中で打ち捨てられた尖塔の室内を照らすのは、唯一の窓から差し込む月光のみ……
「本当に美しい爪だなあ」
 パチリ、と爪切りが鳴るたび、背を這い上がる恐怖……マリナは身震いした。
 ノノスは彼女の引っ込めようとする腕を強く掴んで引き寄せ、暗く笑う。
「言う事を聞かないと……ちょっと手が滑って剥いじゃうかもよ?」
 歯を食いしばって恐怖に耐えるマリナに、ノノスは恍惚とした様子で付け加えた。
「なーんて。そんなことをしたら二度と生えてこないもんね。やりませんよ」
 彼の語ることには――有羽人の黄金の髪や、瞳、爪が上質の宝石として売買されること、臓腑が万病に効くなどの話には、揺るぎない確信があった。そしてそれは、どんな反抗の意思も削ぐほどの恐ろしさがあった。
 彼は、事実、知っているのだ。
「…………また煩い奴らが来たなあ」
 扉の外で部下が呼びに来て、ノノスは小さく舌打ちした。
 外が騒がしかった――浮浪者が施しを求めて群がって来ているのだろう。
 修道院を掌握したノノスは、ロレンツォがやっていた炊き出しなどの人道的活動を一切行わなくなった。
 それを糾弾する声は、すぐに夜にもあがるまでになった。
 マリナの爪を集めるとノノスは立ち上がった。
 次いで足早に部屋を出ようとしていたノノスは、不意に立ち止まり振り返った。
「そうだ。ロレンツォは街の片隅で乞食同然の生活をしているそうですよ。破戒した修道士の罪は重い。町の人からは石を投げ付けられる始末だそうです」
「な……ッ!」
「何を驚くの? 彼を貶めたのは他でもないあなたでしょ」
 こんな事になるとは思っていなかった――マリナの目に涙が滲む。
 自分が浅慮が恨めしく、悔しかった。情けなかった。
 ノノスは、「そうでしょうねぇ」とニヤニヤ笑ってマリナを舐めるように見つめた。
「……許さない。絶対、許さないんだから!!」
「どうぞ。あなたには恨む権利があります。此処から生きては出られないんだもの」
 ぞっとするほどの冷たい目に、マリナは身体を強ばらせる。
「髪も目も爪も全て金貨に変わる。――ああ、でも」
 ノノスは無残にも短く切られたマリナの黄金の髪に触れると顔を歪ませた。
「あなたなら解体して売りさばくより、このまま売りつけた方がお金になりそうだね。解体と、どっちがましかは分かんないけど」
 マリナは目をきつく閉じて、恐怖を抑え付けようと努める。
 と、その耳に、ノノスは「嘘だよ」と吐息を吹きかけた。
「穏やかな夜を。オレの愛おしい天使」
 打って変わった声で告げ、彼はくつくつと低い笑いを落とすと、部屋を出ていった。
 ……マリナはふらりふらりと後退すると、力なく壁に寄り掛かり、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。
 震える手を見下ろせば、指先は酷い深爪に血が滲んでいた。
「…………ロレンツォ」
 ピクリと近くで監視の犬が顔を上げた。
 慌ててマリナは石畳に描かれた線を確認し、足を引き寄せた。
 じゃらり、と足首につけられた鎖が鳴る。
『その線よりも先に足を伸ばせば、食い千切るよう躾けてあります』
 ノノスの意地の悪い声が脳内に蘇る。
 この鎖さえなければ、窓から飛んで想い人の無実を訴えに行ける……こうしている内にもロレンツォは虐げられ、不当な暴力を受けている。
 そう思うのに、足を伸ばす決意ができない。
 怖い。
 痛みを想像して、身体が動かなくなる。
 そもそも、本当に足だけで済むかも分からない。
 この懊悩すら、ノノスを愉しませるものでしかないとマリナは知っている。
「ロレンツォ……わ、私」
 けれどいつまでも怯えているわけにはいかなかった。
 自分の浅慮で大切な人を傷つけたのだ。
 彼を無視した行動の数々……マリナはきつく唇を噛む。
「罰を受けるのは自分だけで十分だ!」と。
 そろそろと足を伸ばす。
 犬が顔を上げ、低く唸る。
 じっとりと手の平が汗ばんだ。唾液を飲み下す。
 脳裏を過ぎる痛みの予感に身体が音を立てて震えた――と、その時だった。
「やつれたね。随分と高い授業料だったみたいだ」
 声に、窓を振り返れば、そこには思わぬ人物がいた。
「ロレンツォ!」
「おばか。大声を出す奴があるか」
 口元に人さし指を当てて、彼は軽々と部屋に降り立った。
 ほつれの見える木綿の服をまとっても、彼の美しさは損なうことがなかった。翳りを帯びて、更に研ぎ澄まされたようにも見える。
「どうして、こんなところに」
「遊びにきたように見えるの?」
 呆然とロレンツォを見つめれば、彼は眉をハの字にする。
 それから、背負っていた斧を取り出すと、マリナの足を拘束する鎖に躊躇無く振り下ろした。
「……行くよ」
 自由になったマリナの手を取り立たせると、彼は窓外に持ってきたロープをぶら下げた。
 しっかり固定されているのを確認し、マリナを引き寄せる。
 鼻孔を擽る汗の香り……。
 見下ろせば、思った以上の高さがあった。落ちればひとたまりもない。
 そんな中、彼は翼もないのに登ってきてくれた――マリナはロレンツォに思わず抱きついていた。
 彼も珍しく厭味一つ口にせず、受け止めた。
 シャツは汗でびっしょりだった。
 マリナは安堵も手伝って、啜り泣いた。と――
「どこから有羽人(マリナ)の話まで漏れたんだ? ったく、あれじゃいつ襲われるか――」
 ぶつくさと呟きながら戻ってきたノノスが、闖入者の姿を認めて言葉を飲んだ。
「ロレンツォ……!」
 ロレンツォは溜息を一つつくと、マリナを背に庇うように窓の方へと押しやり、ノノスに対峙した。そして淡泊に告げた。
「お行き。マリナ。君には翼がある」
「で、でも」
 ハッとしたノノスが犬笛を口に咥える。
「行かせないよ」
 あっと声をあげる暇も無く、ノノスの背後に付き従っていた犬三匹が同時にロレンツォに躍りかかった。
 斧で応対しようにも相手は獣――ロレンツォが腕を噛まれて獲物を取り落とす。
 マリナの唇から悲鳴が溢れた。
「ロ、ロレンツォ……ッ!!」
 が、彼は死に物狂いでマリナに向かおうとした一匹の尻尾を掴む。
 獰猛な息づかいと、うめき声、肉を裂く音が室内に響き渡る……
「や、やめ――――――ッ!」
 床に点々と赤が散った。
 マリナは口に手を当て、息を飲んだ。涙と混乱で視界が歪んだ。
「やめて。やめさせて! お願い! 私、行かないから……ッ」
 マリナは手から笛を取り上げようと、無我夢中でノノスに飛びかかった。
「やめてよ! やめて――――――!!」
 渾身の力でノノスを押しやると、笛をもぎ取る。
 がむしゃらに笛に息を吹き込んだ。使い方など知らなかった。それでも何もせずにはいられない――と、群がっていた犬らの耳がピクリと動いた。
 それから、おずおずとロレンツォから距離を取り始める……
「ロ、ロレンツォ……!」
 蹲っていたロレンツォが身動ぎする。
 命のある安堵に浅く息を吐き、マリナはそろそろと近付いた。
 その時、彼女の背を断末魔の絶叫が打った。
 ギクリ、と振り返ったマリナは息を止めた。
 先ほどまで何事もなかったかのように床に蹲っていた一匹の監視犬が、倒れ込んだノノスに飛びかかっていたのだ。
 命を削る牙……ノノスの身体は、「線」を踏み越えていた。
「ひっ……ひぎゃ、あ、た、助け――――」
 伸ばされたノノスの手に、マリナはガクガクと震える手で笛を固定し再び口に含んだ。
 が、何度息を吹き込んでもノノスを食い散らかす犬はピクリとも意識を乱したりはしなかった。
 ――当り前だ。耳を潰されているのだ。
「あ、あ、あ……」
 為す術もなく呆然とするマリナの前で、ノノスは喉笛を噛み千切られ、血反吐を吐き散らしながら床に沈んだ。
 黒い塊は犬が鼻先を押しつけるたびに痙攣をおこして跳ねた……
「て、手当て」
 歯の根の合わない唇から掠れた声が漏れる。
 マリナは震える両手を胸の前で組むと、犬から距離を取りながら、扉に身体を向けた。
「そ、そうよ。すぐにお医者様を、よ、呼ばなきゃ。下に、行って、すぐ――――」
 その腕を後ろから掴まれマリナは飛び上がった。
 振り返ればロレンツォだった。
 彼はよろけながらもしっかりと無言で首を振った。
「わ、わたし、わ、たし、殺す、つもりなんて」
 見開いた目から、ぽろりと涙が零れる。
 マリナは噎せ返る血の香りに口元を手の平で覆うと、きつく奥歯を噛みしめた。
 ロレンツォに抱きしめられ、マリナはその胸板にしがみついて泣きじゃくった。
 事切れたノノスを漁る犬の息づかいと、所在なげに部屋を徘徊し始める犬たちの足音が室内に響いた。
 不意に、窓外が騒がしくなったのはその時だった。
 罵声、怒声、悲鳴、物を打ち壊す音――ばたばたと階段を駆け上ってくるのは、ノノスの部下だ。
「ノノス様!」と切羽詰まった声が扉を叩く。
 ロレンツォはマリナを離すと、窓から階下を覗き込んだ。
 マリナもそれに続く。
 農民だろうか、数十人もの男たちが農具や松明を手に塔を囲っていた。
「……い、一体」
 マリナはノノスの言葉を思い出し、ハッとした。
 すげなく扱われた鬱憤だけでなく、彼らは此処に有羽人がいることを知っている!
 ロレンツォは一つ嘆息すると、ズボンの後ろポケットから一枚の紙を取り出した。
 丁寧に皺を伸ばし、マリナに差し出す。
「南の方にスリサズと言う街がある。その修道院長に保護して貰いなさい。彼は僕の親友で、とても信頼のおける人物だから」
 言って、彼はマリナを行くよう促した。
「でも」
 渋るマリナの耳に一際大きな怒号と悲鳴がが届いた。
 外で取り囲んでいた男たちがついに一階の、礼拝堂に乗り込んで来たのだ。
「君の存在を、彼らが素直に教会に差し出すとは思えない」
 有羽人は存在だけで金になる。
 つまりマリナの存在は闇に葬られる。至極当然の帰結だ。
「…………ロレンツォは」
「まぁ、なんとかなるだろう。僕を殺しても一文の得にもならないしね」
 けれど、ただで済むとも思えなかった。
「さようなら。元気で」
「いやよ!」
 するり、と頬を撫でたロレンツォの手をマリナは掴み、激しく首を振った。
「行くならあなたも一緒よ」
「君の足手まといになる」
「そんなことないわ!」
 ロレンツォは自身の傷ついた全身を示した。足の腱を傷つけられたのか、片方の足は引きずっていた。
……マリナの翼も全能ではない。
 飛べば疲れるし、自重に加えて他人も連れて飛ぶとなると負担も多い。
 マリナにはロレンツォの気遣いが痛いほど分かった。それでも納得することはできなかった。
 乱暴な音が、扉をこじ開けようと躍起になる。
 破砕音に部屋が振動する。犬らが不安げに歩き回る。
「マリナ……」
 暫くの沈黙のあと、ロレンツォはいやいやを続けるマリナ手を取ると、口を開いた。
「君を、愛しているよ」
「……え?」
 思わぬ言葉に、マリナは目を瞬かせた。
「君に不埒を働いたと告発された時、僕は否定しなかった。それは否定しようが無かったからだ」
 彼はゾッとするほどの艶やかな微笑みを浮かべると続けた。
「何度君を想像の中で犯したことか」
 マリナは咽を鳴らして、思わず後退りする。
 距離をつめて、ロレンツォはマリナの頬を両の手で包み込んだ。上向かせ、切なげ眼差しに覗き込むと、言った。
「君の肌に歯をたてて、しつこいほどに唇を這わせて、深く強く抱いて――否定なんて、できなかったよ」
「で、でも、だって、あなたは私のこと嫌いだって……」
 おずおずとロレンツォを見たマリナは、言葉を飲んだ。
「本当に? 本当に、私のこと……好いていてくれたの」
「ああ。君が想うよりもずっと強く。激しく」
 深くロレンツォが頷く。
 マリナは震える吐息を絞り出して、問いを重ねた。
「なら、どうして? どうして、応えてくれなかったの……?」
 もどかしくも苦しい思いが燻る。
 けれど、マリナは血の香りと、今にも破られそうな扉の軋みに、全ての思いを飲み下した。
「いいえいいえ。いいわ。過ぎたことだもの」
 それから頬を包む手に手を添えて、請うた。
「一緒に行きましょう、ロレンツォ」
 けれど返事はない。
 思い合っていると今確認したばかりなのに拒絶する彼がマリナには分からなかった。
 どうして良いのかも分からなかった。
 焦りと愛おしさと恐怖と惨めさと……様々な感情が彼女の胸の内で荒れ狂う。
「どうしてよ……どうして? 好きだと言ってくれたじゃない。なのに、どうして一緒に行ってくれないの」
「君に嫌われるのが怖いんだ」
 自嘲と共に吐き出された言葉に、マリナは眦を吊り上げた。
「嫌うはずないじゃない。私、そんな軽い気持ちであなたを好きになったんじゃない!!」
 縋るようにきつく、ロレンツォの手を握る。
「私のお婿さんはあなたよ。あなただけなの。あなたが好きなの! 愛してるの!!」
 肩で息をして声高に叫ぶ。
 そんなマリナを寂しげに見つめ、ロレンツォは小首を傾げた。
「……僕がどんな人間でも?」
「ええ」と、マリナは深く深く、強く頷く。
「私の知らないあなたが、どんな人でも、私は惹かれているこの心に従うだけよ。そしてあなたが私を好きでいてくれているなら……もう我慢しないわ。自分の心に嘘はつかない」
 真っ直ぐ、マリナはロレンツォを見つめた。
「あなたが好きよ。大好きよ」
 繰り返す。想いを。吐き出す。……想いを。
 束の間、マリナを見つめていたロレンツォは、ほう、と苦しげな溜息をついてから、マリナの右手を包んだ。
「これでも、そんなことが言える?」
 それから左手でシャツのボタンをはだけると、その胸元にマリナを導いた。
 訝しんだ彼女の表情が、みるみる内に驚愕に変わる。
「そ、んな……」
修道士処女(モナコパルテノス)」と、マリナの唇が象る。
 修道士処女。即ち、男装の修道士……
「母上が亡くなった時、僕は四歳だった。父上は幼い我が子と離れるのは不憫だと僕と共に修道院に入った。僕はそれからずっと男として生きてきた」
 ロレンツォは感情を殺した声で語り、切り替えるように愛おしげにマリナを見つめた。
「君のくるくる変わる表情が溜まらなく愛おしかった。我儘で、一生懸命で、気が強くて、でも寂しがり屋で、放っておけなくて……どうしようもなく君に惹かれた」
 言って、彼の――彼女の瞳が翳る。
「だけど、君の想いには応えられない。僕は男じゃない」
 身を切り裂くような吐露が続く。
「君は国に男を連れ帰らねばならない。でなければ、その美しい翼は抜け落ち、人になり果てる」
 有羽人は人の男を国に連れ帰り、子を成して一人前となる。
 しかしそれが叶わぬ場合には二度と天上の国へは戻れない……
「君が好きだ。君を愛している。でも、どれだけ君を想っても……僕じゃダメなんだ」
 言い聞かせるように、彼は言った。それから諦めた笑みでもって、マリナの肩に手を添えると窓へと押しやる。
「私は」
 窓を向いたまま、マリナは唇を戦慄かせた。
「……私は、ロレンツォ、あなたが好きなの」
 途切れ途切れに紡がれる声に、やがて熱と確信が滲み、溢れた。
「男だとか、女だとか。関係ないの」
 マリナは振り返った。
「私は――あなたが好きなの」
 翠玉の瞳が、きつくロレンツォを射貫く。
「国に帰れないなら帰らないわ。人になるなら人になる。命が短くなるのなんて、ちっとも怖くないわ!」
「今はそうでも、いずれ変わる。帰りたいと思う時がくる。人になったことを悔いる時がくる」
「だから何なのよ!」
 彼女は癇癪を爆発させた。
「いずれ、っていつ? 私は未来のために生きているんじゃないの。今、生きてるのよ!」
 それから、彼女は頬を膨らませてぷん、とそっぽを向いた。
「私、絶対、此処から動かないから!!」
 唖然とするロレンツォにマリナは続けた。
「私は今、あなたと一緒にいたいの」
 俯いたまま紡がれる言葉……それは、自分を盾にした脅迫だった。それでも撤回はしなかった。
 ロレンツォの服の裾を握りしめ彼女は必死に訴えた。
「ちっとも怖くないんだから。死ぬのなんて……あなたと会えないのに比べたら」
「マリナ……」
「だから、せめて……最後まで、一緒にいさせて。想いを貫かせて」
 側にいたい。
 離れたくない。
 死んだって構わない。――――けれど。
 彼女は顔をくしゃりとさせた。
「でもね」と、押し殺した嗚咽と共に、歯と歯の隙間から言葉が漏れる。
「本当は…………生きたい。生きていたいわ。あなたと、一緒に」
 ――――――バンッ! 
 押し破られた扉がついに弾けて、武装した男たちが雪崩込んで来たのは、その時だった。

     * * *
 浮浪者たちが急襲した夜、天を大きな鳥が羽ばたいていったと語る者があった。
 が、その鳥の正体も、いな、話の真偽すら、判る者は誰もない。

修道士処女の破戒 (了)

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