《ったら星人》の甘い恋

 高校から帰宅すると、近藤萌は赤のプラスチックボウルを手に、家から二十分ほど、N坂を登った途中にある豆腐屋〈やまだ〉へと走る。
 目的はもちろん大好きな、無添加の美味しいお豆腐……は、実はついでで、そこの三代目店主・山田さんを見るためだ。
 山田さんは細面の美しい女性だった。
 緩くウェーブのかかった長髪を背でまとめた彼女はモデルのような長身で、腰に巻いたポリエステル製の黒い和風前かけの下からはすらりとした足が伸びる。とりわけ萌が惹きつけられたのは、柔らかな雰囲気に確とした威厳を添える、意思の強そうな瞳。
 殆ど店頭には、精悍な顔立ちの男性――佐々木さんが出ていて彼女が表に出る事はほぼ無かったけれど、時折見かけるその姿を期待して、萌は飽きずに毎日通っているのである。
 数年前まで〈やまだ〉も多くの豆腐屋の例に漏れず、時代の流れにより廃業に追い込まれんとしていた。
 それが佐々木さんが店に立つようになってから様相は一変、健康ブームに乗っかったかと思えば、突如、バジルを混ぜ合わせたイタリアン風豆腐だとか、湯葉ソフトクリームだとかが従来のガンモ、アゲと共に売り出され始めた。
 口コミや雑誌掲載など精力的な広報活動のおかげもあり、廃れた小さな豆腐屋さんは、今では、学生街であるN坂近郊のグルメスポットだ。
 十一月三日。十六才の誕生日を迎え、やっと父からアルバイトの許可を貰った萌は山田さんにお近づきになりたい一心で、その日の内にバイトとして雇ってくれと〈やまだ〉に直談判しに行った。
 留守だった店主の替わりに、対応してくれた佐々木――佐々木貴博さんは、豆腐屋で働きたいって若い子は見た事がないよ、と笑ってあっさりオーケーを出した。
 時給八〇〇円、週四日勤務。
 火、木は朝四時から学校が始まるまで、土、日は昼から夕方まで。
 始めてのアルバイトにしてはハードだったけれど、憧れの人に会えるならどんな事でもへっちゃらだと思える。

 翌日の夕方、萌は挨拶のため学校から直接店に向かった。
 〈やまだ〉は縦長の三階建て建物で、一階は和で統一された店頭、厨房、畳の休憩室の三つに分かれ、二、三階は山田家の住居だった。
 暖簾をくぐり硝子扉を押し開ければ、大豆の甘い香りが鼻を擽る。
 左手手前にヨーグルトなど豆乳の加工品を並べた蓋のない平形冷蔵ショーケース、その奥にレジ、右手側にはソフトクリームを購入した客が座れるように竹で組まれた縁台(いす)があった。
 厨房の水を張ったシンクの中では純白の豆腐が揺らめき、その横にはアゲやガンモが並ぶ。
 休憩室から山田さんが顔を出した。
 佐々木さんが紹介してくれるままに頭を下げれば、
「いやよ、あたし。デブと働くなんて」
 萌を一目見て発された憧れの人のハスキーボイス。萌の思考が停止する。
「……山田、よく見ろ。このきめ細かい白い肌、まるで絹豆腐のようじゃないか?」
 二人の間に割って入った佐々木さんは萌の肩を掴むと山田さんに向かって押し出した。
「さながらイソフラボン美肌効果の証言者! ……って、ダメ?」
 おどけた様子で首を傾げる彼に山田さんはますます不機嫌に顔を顰める。
 佐々木さんは指先で頬をかくとふいに真面目な顔をした。
「って言うかさ……彼女、お前の豆腐を美味しいって言ってくれたんだよ」
「当り前でしょ。あたしの豆腐は美味しいの」
 麗しの店主が憮然とする。
「それでも、此処で働きたいなんて子はいなかった。だろ?」
 暫しの沈黙。
 はらはら事の成り行きを見守る萌の前で、山田さんは「分ったわよ」と、溜息と共に頷いた。
――こうして萌は憧れの人に接近する事に成功した。……のだが。
 そもそも人生の目標と定めた理想の女性などこの世に存在しなかった。
 店主の山田――山田悟郎さんは――名前からも分かる通り、女性ではなかったのである。

     * * *
 将来はあんな女性(ひと)になりたい。
 いかにも職人気質な山田さんを見かけるたびに萌はそう思ってきた。
 綺麗で恰好良く、仕事に没頭出来る人。
 性別は誤解していたけれど、そんな事はちっとも魅力を損なう理由にはならなかった。
 仕事に打ち込む真剣な姿はやっぱり恰好良かった。
 そう素直に告げれば「これしか能がないから」と山田さんは拗ねたように言った。
 事実、店の経理や趣味の良い内装は全て佐々木さんに丸投げだった。
 山田さんと同級の佐々木さんは、彼の作る豆腐に惚れ込み、押しかけ同然に店で働き始めたのだと言う。
 同士だね、と言う佐々木さんに萌は曖昧に笑った。
 豆腐以上に山田さんが目当てとは言えない雰囲気だった。
 早起きと冬の冷たい水は厳しかった。
 それでも萌にとっては山田さんと共にいられる、この大豆の香りに満ちた職場は天国だった。
 山田さんはとことん無遠慮で口が悪かった。
 初めは瓦解する理想を前に途方に暮れたけれど、実は彼が不器用なだけで、根はとても世話焼きな上に優しいのだと知ると、憧れとは別の意味で彼が気になり始めた……

「少しは服、気ぃ使いなさいよ」
 土曜日の閉店後、帰り支度を済ませた萌はそう山田さんに呼び止められた。
 珍しく制服でなく私服でくれば、どうやらお気に召さなかったらしい。
 萌はどんな服でもブランド服のごとく着こなしてしまう眩しい山田さんを直視出来ず、俯いてぼそぼそ言った。
「でも、私が可愛い服とか着たら、気持ち悪くないですか」
 太い身体の線を隠すため、夏でも長袖にジーンズ、色合いは少しでも細く見えるように黒か灰色を選ぶ萌である。
 可憐なひらひらした服も柔らかな色合いも、今の自分が着たら何となく申し訳ない……自身の容姿をきちんと自覚しているからこそのチョイスなのだ。
「まさかあんた、痩せたらお洒落しようとか思ってるんじゃないでしょうね?」
 肯きかけた萌は、肉付きの良い頬を抓り上げられて目を白黒させた。
 山田さんは続けた。
「そういう人間に限って、ダイエットは明日からとかで結局やらず終いなのよ。いい? 今やらなきゃ一生やらないわよ」
 うっ、と胸に突き刺さる正論に、萌は顔を上げる事が出来ない。
 自己管理能力の欠如……いつもジャンクフードと冷や奴な食事の言い訳を、この年になっては両親の多忙に求められないのは分っていた。
「そうやって○○したら××って人生条件法の奴らはね、《ったら星人》って言うの。恰好悪いわよ」
 聞き覚えのない言葉に首を傾げれば、
「小さい頃、叱られて「だってぇ」って言い訳する奴の事《だって星人》って冷かさなかった? それの派生型」
 などと教えてくれる。
 確かにそんな事もあったかなぁ、と記憶を辿って黙り込むと、山田さんが途端に気まずそうな様子になった。
「つまり。自分が今どんなだって卑下しちゃダメって事。ほら、俯かない。背筋伸ばして」
 そう言って萌の背中を叩く。
 萌は咳込みながら、口元を両手で覆って肩を振るわせた。
「な、何よ……気持ち悪い子ね」
 にやける顔をどうしても止められない。
 ……だって、山田さんが優しいから。

     * * *
 山田さんが《ったら星人》は恰好悪いと言ったから、単純な萌はその日からマラソンを始めた。
 今の自分を卑下しないように、彼みたいに綺麗になるために…………
 ネットを頼りに料理もするようになったし、化粧にも挑戦してみた。
 目がちかちかするようなファッション雑誌だって購入、美容室では顔を隠しがちだった前髪を短く切って貰った。
 どんどん自分が変わっていくのを感じる。
 これが恋なのかもしれない、と胸の高鳴りに耳をすませば、ぐいぐい想いは加速した。
 三週間などあっと言う間に過ぎた。

 店の軒先から外に設置していた黒板看板を中へと運び、シャッターを下ろした萌の目に、店内の晒竹縁台に座った山田さんが手にする珍しいペットボトルが映った。
「それ新商品ですよね? 美味しいんですか」と、思い切って話しかけてみれば、
「飲む?」
 思わぬ応えに脳内は大パニックを起こす。
 つまり、それは、間接キス……理解が追いつくと、全身の血液が沸騰した。
 しかし。
「はい、どうぞ」
 山田さんはにこやかに微笑んで、飲み干したボトルを萌に渡した。――捨てといて。
 そんな事だろうと思ってました……空っ風に吹かれながら、萌は手の中でボトルを潰す。
「アイツ……口も態度もとことん悪いけど、根はたぶん本当はきっとイイ奴だから」
 レジをいじりながら一部始終を見ていた佐々木さんが、眉をハの字にして、全くフォローにならない事を言った。
「良い人なのは知ってます」
 気を取り直して萌が答えると、彼は嬉しそうに微笑む。
 次いで悪戯っ子のような表情を浮かべて「こっちにおいで」と萌を店の奥、畳の休憩室へと誘った。
 放られていた鞄を引き寄せ、彼が取り出したのは一つのパスケースだった。
 覗き込めば、そこには教室を背景に撮ったクラス写真がはめこまれている。
 年の頃は高校生くらい。年若い佐々木さんが左端で笑っていた。
「この真ん中に映ってるのが高二の山田」
 ついで、彼はその中の一人を指さして笑った。
 一拍の間の後。
「え…………えええええ!?」
 素っ頓狂な声を上げた萌は慌てて自分の口に手を突っ込んだ。
 示されたのは到底山田さんと似ても似つかない、ぽっちゃりと肥え太った少年だったのだ。
 指摘されれば目元と口の端に面影があると言えない事もないが……
「まぁ、だからかな。こう、ちょっと太めの人間にはアイツ、辛口なんだよ」
 写真の中、少し神経質そうに顔をしかめる少年を、萌はまじまじと見つめた。
 綺麗とほど遠い少年は、どれだけ努力して今を手に入れたのだろう。
 彼の目には自分はよっぽど甘ったれに映ったに違いない。
 太っていたからこそ、太る理由を誰よりも知っているのだ。
「ちょっと、貴博! 彼女、来てるわよ!」
 店の裏口の方から、山田さんの声が佐々木さんを呼んだ。
 慌てて写真を隠して出ていく佐々木さんの後を、何事かと思って追い掛ければ、山田さんの隣に見知らぬ女性が一人立っているのが目に入る。
 黒髪の静かそうな女性だった。
 佐々木さんは親しげに近寄ると二、三言葉を交わしてから、萌を振り返り紹介してくれた。
「彼女、僕の婚約者」
「え……」
 おめでとうございます、と言おうとした舌がもたついた。
 一瞬、山田さんの面に過ぎった沈鬱な表情に目を奪われたからだ。
 常時ポンコツな第六感が、有らぬお節介を萌の耳元に囁く。
 ……山田さんは、佐々木さんが好き。
 それは確信だった。

     * * *
「じゃーね」と言って萌と佐々木さん、婚約者の三人を送り出した山田さんの声のトーンはいつもより低かった。
 帰路につく佐々木さんたちに別れを告げた萌は、N坂の中腹まで降りると歩みを止めた。
 何となく、彼の様子が気になって帰る気になれない。
 暫く所在なくぶらぶらしていると、黒いロングコートを身に纏った山田さんが道路の対岸を降りてきた。萌に気付いた様子もなく、その余りに辛そうな姿に自然と萌の足は彼の後を追う。
 学生ばかりの安い飲み屋が紛然と並ぶ歓楽街。
 喧噪に、ともすれば飲み込まれてしまいそうな細い背を、萌は必死に追い掛けたが、すれ違う人たちの奇異の目に、制服姿の自分が場違いに浮いているのに気付いて冷静さを取り戻す。
 山田さんも子供ではないのだ――萌は少しだけ残念に思いながらも踵を返そうとした。
 と、その時。目前の山田さんが酔っ払いに絡まれているのが目に入った。
 足先から舐めるように山田さんを見る、だらしなくネクタイを緩めたサラリーマン風の若い男……一方、山田さんは面倒そうにしてはいても振り払う所作にいつもの切れがない。
「あ? 何だこのクソガキ」
 山田さんを背に二人の間に入った萌は、「いきましょう、山田さん」と、問答無用で彼の腕を引っ張った。
「ちょっ、待てよ!」
 未練たらしく腕を掴んできた男の手を、山田さんがそっと払う。
「すいません。失礼します」
 至極、相手の神経を逆なでしないような穏やかな声音だった。
 が、男はその低い声を聞くなり、げぇっと呻き飛び退った。
「お前男かよぉ!! キモッ……」
 断られた腹いせのつもりか、口汚く罵り始める。
 それに、ブチンと音を立てて萌の理性が脳天を突き破った。
「――――何ですって?」
 山田さんに制止の暇を与えず、男の前に仁王立ちになると、萌は人さし指を突きつけた。
「酔っ払って、こんな所で誰彼構わず声かけするあなたの方がずっと気持ち悪いじゃないですか! 山田さんは綺麗なんです。さっきの撤回してくださいッ」
 想定外の事だったのだろう、男は一瞬ぽかんとした。
 次いで顔を怒りに赤黒くそめる。
 ――あ、ヤバイ。
 そう思った時には、男は腕を振り上げていた。目前に迫る拳。
「……子供相手にみっともないンじゃない?」
 咄嗟に目を閉じた萌は、侮蔑しきった声に恐る恐る顔を上げた。
 山田さんがゾッとするほどのきつい眼差しで、男の手を右脇から掴んでいた。
「うるせぇ! このカマ野郎!! ちっ……見てんじゃねぇよ。散れ、散れ!」
 ざわざわと辺りが騒がしくなるのに、男はばつが悪そうに両手を振り回して威嚇すると、そそくさと逃げ去っていく。
「ったく。ああいう輩は放っておくの」
 山田さんはそう言って、萌に向き直ると、額を長い指先で弾いた。
「で? 何であんたこんな所にいるわけ?」
「…………帰り、こっちなんです」
 分りきった嘘に溜息が降る。
 怒るかな、と不安になって見上げれば、彼は肩を竦めた。
「ま、いいわ。ついでだから夕食でも一緒に食べよっか。奢るわよ」
 二つ返事で頷けば「そんなにお腹減ってたのぉ?」と彼は笑った。
 その様子はいつもと変わらない。
 山田さんは決して弱いところを見せない……。それが、何だか寂しかった。

     * * *
 食事を終えて店を出ると、冷たい風が頬をなぶった。
 思わず萌は、首に巻いたマフラーを耳まで持ち上げる。次いで隣を歩く山田さんを盗み見た。
 酒気に潤んだ瞳を見ていると、胸が高鳴る。とろんとした目元が色っぽい。
 萌は意識を逸らさんと暫くの逡巡の後、問いを口にした。
「山田さん、って…………佐々木さんが好き、なんですか?」
「…………やっぱ、バレバレよね」
 さして抵抗もなく萌の予測を認めると、彼は懐かしい過去へと思いを馳せるように目を眇め、ぽつぽつと語り出した……
「あたしさ、高校の頃やっぱりあんたみたいに……ううん、あんた以上にデブだったのよ。で、そん時のあたしは努力も何もしないで痩せさえすれば人生全部うまくいくんだって信じてた。典型的な《ったら星人》だったわけ」
 萌はじっとその話に耳を傾ける。
「高二の頃に、同級だった貴博が突然中退したの。此処には僕の学びたい事はない! って。渡米するって……あたしは笑ったわ。中退なんかしなくたって卒業してから行けるじゃない。そしたらアイツ、不思議そうな顔して訊いたのよ。『今、アメリカに用があるのに、何で後から行くんだよ?』って。ハッとした。そんな思い切った生き方が衝撃的で……自分が恥ずかしくてたまらなくなった」
 彼の唇から白い溜息がこぼれる。
「あたしは大学卒業後、一般企業に就職したわ。いくらあたしが天才的に美味しい豆腐が作れるって言っても、豆腐屋なんて今の時代続くはずもないし。それに、実はあたし、味の薄いものってあんまり好きじゃなかったのよ。それでも、昔、貴博が美味しいって言ってくれたの覚えてたから、休みの時とか暇を見つけては父さんの手伝いしてた……」
 けれど、二年前、〈やまだ〉の前店主、彼の父親が腰を痛めた。家族会議の末、店を畳む事を決めたらしい。スーパーの進出により多くの豆腐屋が消えていく事をきちんと把握していた彼の父は、山田さんに無理に継げとは言わなかった。
「それがね」と、くすりと小さな笑みを零して、彼は続けた。
「十年ぶりに貴博が帰って来たのよ。僕が日本一の豆腐屋にしてやる! って。そのためにアメリカくんだりまで勉強してきたんだってね。バカよね。あたしの方が拍子抜けしちゃった。でも……」
 山田さんはそっと目を伏せた。
「アイツの一番になりたくて。本気であたしも店を継ごうと決意した。もっと近づきたかった。仕事のパートナーとしてだけじゃなくて……ふふ。アイツ好みの女になれたら、って化粧も覚えたのよ。バカよねぇ。そうこうしている内に取られちゃった。結局あたし、《ったら星人》のままだったわ」
「だったら、告白してみたらどうでしょうか」
 自嘲する彼の服の裾を掴で引くと、萌は語気荒く提案した。
「おバカ。そもそもあいつ結婚するのよ。それで告るとかどうかしてる」
「当たって砕けるんですよ!」
「砕けてンじゃないのよ!」
「……じゃぁ、山田さんはこのまま、佐々木さんたちがイチャイチャするのを、歯軋りして見続けるって言うんですか?!」
 唇を突き出し、唾を飛ばして重ねて問えば、
「平気よー。ずっとそうだったもの。あたしは貴博の側にいられるだけで満足」
 手を後ろで組み、地に転がる石を蹴っ飛ばしながら山田さんがそっぽを向く。
 その姿に萌は拳を震わせると、身を翻した。
「…………ちょっと? 何、どうしたのよ?」
「無性に腹立ったんで、佐々木さんをひっぱたきにいってきます!」
「は……はあ!?」
 車も通らない閑静な道に、萌の苛立たしげな声が響く。
「ズルイじゃないですか! 佐々木さんは山田さんの気持ちに気付いてないんですよ!?」
「いや、だって、あたしが勝手に好きになったんだし……」
「誘惑したのは佐々木さんです!」
 論理破綻なのは重々承知。けれど、どうしても納得出来ない。
 だって山田さんがこんなに苦しんでるのに……いや、単に悔しいのだ。
 彼を左右出来るのは誰でもない佐々木さんだけだから。…………自分ではないから。
「――ああ、もう、どーせ嫉妬ですよ!! 笑顔も涙も照れてる姿も全部全部佐々木さんのものなんだものっ。悔しい悔しい悔しいッ!!」
 途端に涙腺が決壊した。
 自身の失恋が悲しいのか、それとも憧れの人が悲しむから辛いのか。
 分らないけれど、とにかく悲しい。
「本当に意味分かんない子ね。ここはあんたがあたしの事を慰める流れじゃないの?」
 山田さんが困った顔をする。
 ハイ、その通りです。そのつもりだったんです。
 けれど結局言葉にならない。
 山田さんは呆れたように萌を見てからガードレールに腰かけた。隣に座るよう萌に手で合図する。
 大人しく従うと、彼は萌の髪にそっと触れた。それから落ち着くまでずっと撫で続けてくれた。
……何だか申し訳なさすぎて、萌の目からますます涙が零れる。
 失恋した彼を慰めようとして、どうして自分が気遣われているんだろう……?

     * * *
 折しもクリスマス。
 閉店後はプチパーティが催され、近場のパティスリーのケーキを三人で食べた。
 この日に限っては多くの人が洋食なのだろう、いつも売り切れてしまう豆腐をお土産に山ほど袋に詰めた萌は、ほくほく顔で帰路についた。
 以前貰った豆乳がまだ残っているから夕飯は豆乳鍋、翌朝には豆腐パンを焼くつもりだ。この量ならおやつに焼き豆腐ドーナツも作れるかもしれない……すっかり料理にはまった萌である。
「あれ? ない」
 帰宅時間を知らせるため、父親に電話をしようとした萌は、ブレザーのポケットに携帯が入っていないのに気付いた。
 慌てて店に戻って裏口から入れば、しんと室内は静まり返っていた。
 萌は首を傾げる。
 二人がいるだろう休憩室はまだ明るい。
 訝しげに玄関から部屋を覗き込んだ萌は後悔した。
 座椅子に腰掛けた山田さんと、その後ろに立つ帰り支度を済ませた佐々木さんの様子がおかしい。
 天上からぶら下がる紅葉の散った和紙素材の円形照明(ペダントライト)が照らし出す、ぼんやりとした空間はさながら映画のワンシーンのようで、膝丈ほどの背の低いローテーブルの上で手を組んだ山田さんの横顔は痛いほどに真剣だった。
「あたしが女でも、恋人にはしなかった?」
「しないな。お前は大切なパートナーだから」
 佐々木さんのはっきりとした応え。
「僕はお前の豆腐を一番愛してる。あ、もちろんお前の事も好きだよ。だけど、お前より紀子を愛してる訳で」
「あんたの中じゃ、豆腐、紀子ちゃん、あたしって順位なのね」
「単なる豆腐じゃない。お前が作った、だよ」
 のほほん、とした声が律儀に訂正する。
 萌が思わず額に手をやり溜息を吐けば、がちゃん、と何かが割れる音がたった。
 慌てて石畳の玄関に蹲れば「おかしいでしょ!?」と山田さんのヒステリックな叫びがあがる。
「何で。どうして。あたしじゃなくて豆腐!?」
「ちょ、山田、皿は投げ……痛い!」
「このバカ!! 唐変木!! お前なんて豆腐にぶつかって死んじゃえ!! うわ――んっ!」
 身の危険を感じたのか、佐々木さんは「また明日な!」と叫び、疾風の如く靴を突っかけ萌の目前を逃げ去っていった。
……さて、困った。とんでもない場に居合わせてしまった。
 山田さんの性格を考えるに、この場に止まる訳にはいかない……携帯を諦めた萌は足を忍ばせ、四つん這いで外へ向かう。が。
「……もちろん片付けは手伝ってくのよね?」
 声に恐る恐る振り仰げば、半泣きで腕を組んで見下ろす山田さんと目が合った。

     * * *
 お互い一言も交わさずに片付けをした。
 一通り終わると、座椅子に座る山田さんに、昆布茶を煎れてやりつつ、彼の隣……の隣に萌も座った。かける言葉が見つからず、膝に置いた自分の手を見ていると、
「口説いてもいいわよ」
 木目のローテーブルに頬杖を突き、そっぽを向いていた彼はそのままの姿勢で言った。
「はあ。………………はあ!?」
 一テンポ遅れて理解した萌がぎょっと顔を上げる。
 山田さんはつまらなそうに続けた。
「今がチャンスって事。七年ごしの恋にけりつけて、もの凄く落ち込んでるんだから」
「だ、だからって……どうして私が」
「あんた、あたしの事好きでしょ?」
 至極当然な問いに平然とした応え。
「なっ……」
「告白しろってけしかけたのも、このためなんじゃないの」
 続く言葉が見つからなくて萌は唇をぱくぱくさせた。
 そんな下心で提案したつもりは毛頭ないが、好きだと言う気持ちは間違いではない。
 けれど今、ハイそうですと頷いて良いものだろうか。何かもっと、こう……告白にはそれなりな雰囲気とかタイミングとかがあって。
 もっと綺麗になって、一緒に歩いても彼に恥をかかせないような女の子になって、それから――――でも、それはいつだろう?
「なーんてね。冗談よ、冗だ――――――」
「山田さん! 大好きですッ!!」
 突然立ち上がって選手宣誓よろしく告げた萌に山田さんがきょとんとする。
「………………捻りがない。2点」
 それからボソリと告げられる判定。
 萌は拳を作ってめげずに続けた。
「は、初めて、山田さんを見かけた時、凄く奇麗な人だーって、目が離せなくなって」
「当り前の事言ってんじゃないわよ。0点」
「うっ……どうしても山田さんに近づきたくてバイトに申し込んだんです。でもあなたは想像してた人と別人で……ぶっちゃけショックでした。でも本当の山田さんを知ってく内に、ぐいぐい惹かれていったんです。お豆腐作る横顔とか、はっとするほど格好良くて……その上、恋に不器用で可愛くて」
 今チャンスと言うなら、今飛び込まなくてどうする。
 必要条件なんて後から手に入れていけばいい。それを山田さんが教えてくれた。
「それに、山田さんはよく厳しい事を言うけれど、いつだってその裏には優しさがあった」
 俯くな、前を向け、卑下するな。
 容姿にコンプレックスのあった萌を、彼はそう励ましてくれた。前よりずっと呼吸が楽になった。
「山田さんの言葉が私を変えてくれた。いえ、変えてくれる。新しい私に……私に可能性を信じさせてくれる。そんなあなたの側にいたいと思ってるんです。ゾッコンです」
「……それで?」
「そ、それで? えーと、ええーっと……」
 言い切ったと思った側から続きをせかされ萌は頭を抱えた。
 こんな事なら口説きの台詞でも勉強しておけば良かったと頓珍漢な事を思い始めた時、山田さんの頬が涙で濡れた。
「あら、やーね。感動しちゃったのかしら」
 そう惚けたように肩を竦めて、彼は袖で目元を拭う。
 萌は溜まらなくなって、片膝を折ると、山田さんの右手をむんずと掴んだ。
「お散歩しません? 気分転換に。あたし、何時までだって付き合いますから」
 言って、萌は精一杯の笑みを向けた。
 もしも大好きな山田さんが誰か別の人と結婚する事になったら……辛くてやるせなくて、でもどうしようもなくて、途方にくれるに違いない。
 そんな時、自分ならどうするだろう? どうして欲しいだろう? 
 どんな言葉にも慰められる事はない気がする……
 0時を過ぎて日付も変わり、クリスマスは終わったと言うのに、町は未だ煌々とイルミネーションに照らし出されていた。そこを姉妹のように手を繋いで二人は歩いた。
「すいません。何だか送って貰っちゃって」
 ……結局、暫くぶらつくと山田さんは萌を家まで送ってくれた。
「萌」
 恐縮して頭を下げ、マンションの入口に向かった時、呼び止められた。
 初めて呼ばれた名にどぎまぎして振り返れば、
「あんたがいて良かったわ。色々ありがと」
 彼は怒ったような拗ねた様子でそう言って、さっと背を向けた。
 萌はまばたきも忘れて数秒間、彼を凝視した。
 それから満面に笑みをほころばせ、首をぶんぶん振る。
「いえ! お役に立てたのなら幸いです!!」
 その声の余りの大音量に、ぎょっとして振り返った山田さんに、萌は重ねて叫ぶ。
「山田さん、大好きです!!」
 ……本当に本当に。心から。

     * * *
 冬休み明けすぐの期末試験を乗り越えたその帰り。
 テスト休みと言う事で暫くバイトを休んでいた萌は、友人二人を伴って店の扉を押し開いた。
 昨夜遅く、山田さんから友達同伴可の緊急招集――つまる所、顔を見せに来いとのメールを受けたからだ。
 ちりん、と澄んだ鐘の音が来客を告げれば、「いらっしゃいませ」と、明るい笑みで佐々木さんが出迎えてくれる。
 友人たちが色めき立つ一方、萌はどうやら仲違いはしなかったらしい、とホッと安堵の溜息を零した。
 と、俄に友の黄色い悲鳴が上がった。山田さんが奥から顔を出したのだ。
 萌は久しぶりに見た彼の姿に挨拶も忘れてぽかんとした。
「どういう心境の変化ですか? その髪」
 縁台(いす)に腰掛け佐々木さんと楽しげに話す友人を放って奥の厨房に入った萌は、茶の用意をする山田さんの隣に立つと問うた。
「失恋したからね。けじめってやつよ」
 肩ほどまで伸びていた髪はさっぱりと短く切り落とされていた。
口調や所作は相変わらず女性らしいものの、ワックスでツンと立てた様は、少し中性的な、爽やか系美青年だ。
 佐々木さんとの会話の合間に、ちらちらと山田さんを盗み見るクラスメートに気付いて、萌は大仰に溜息を吐いた。
 これでは今まで以上にライバルが増えてしまう……
「それに、姉妹って見られるのも癪だし」
 付け加えられた言葉を聞き逃した萌が「へ?」と顔を上げれば、
「ちょっと見ない内に綺麗になったわね、って言ったのよ」と、彼は晴々と笑った。
 ……萌の手から茶器の載った盆が滑り落ちたのは言うまでもない。

《ったら星人》の甘い恋 (了)

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