刻の守護者

止められぬ、別れ(2)

 運が良かったのは、怨霊から逃げ惑う兵らがあまねに興味を持つことがなかったことだ。
 戦場をふらふらする女に、目を止めるの者は、余程余裕のある者に限るのだろう。
「凄い、怨霊の数…………」
 鴨川にかかる清水橋に近付けば近付くほど、黒い霧が濃度を増していた。
 川面は、沸き立つ怨霊たちで真っ黒に染まっている。清水橋付近の五条河原は、上と下を処刑場に挟まれた、霊の吹きだまりとも呼べる場所だった。
 飢饉の折に供養を行う霊場でもあり、清水寺の僧侶が、そこに遺体をまとめて埋葬した塚があるほどだ。非常に怨霊が発生し易い場所なのである。
 にしても、数が余りに多く、怨霊らの動きは活発だった。
 ――まるで何かに誘われるように、集まってきている。
(頼朝…………)
 頼朝の血に導かれて、集まっているのは確実だった。
「ひ、ひいっ、どっか、どっか行ってくれよぉ、化物ぉ――――――っ!」
 ふいに、前方で悲鳴が上がった。
 あまねは、橋の板敷に蹲る武士に、今にも襲いかかろうとしていた怨霊を、手で叩き飛ばした。
「さ、早く」
 恐る恐る顔を上げる男に、逃げるよう促し、あまねは橋へと目を向けた。
 中央から先は、冥界へ飲まれているかのように闇色だった。
 その暗闇に、時折きらめく、銀の光。
 あまねの瞳は、何よりも、邪悪な気を持った、白い獣を捉えた。
 獣はできる限り、人を避け、怨霊に襲いかかっているようだった。
 牙で砕き、振り回し、叩きつける。黒い血漿が飛び散る。靄が霧散する。
 あまねは、キッと前方を見据えると、ブレスレットを結んだ。
 そして、躊躇無く、飛び込んだ。
「頼朝!!」
「―――――――――ッ!!」
 大口を開け、牙を剥き……頼朝は、あまねの目前で制止した。
 時が、止まったかのようだった。
 血だらけの白い獣は、荒い息を吐いてあまねを見た。
 怒りに染まった瞳が、思わぬ者の出現に揺れた。
「あ、まね……?」
 ゴボッ、と嫌な音を立てて、獣は血反吐をまき散らした。前足から、崩れ落ちる。
「頼朝!? やだ、これ……あなたの血なの!?」
「な、んで、お前……こんな所にいる? さっさと逃げ……」
 縋り着くあまねに、頼朝が力なく問う。
「逃げないよ。嫌だって言ったよ。足手まといだって、分かってるけど……何もしないでいるなんて、できなかったの。私だって、みんなが、大切で……何か、何もできないけど、何かしたくて。ううん。側にいたいだけなの」
 泣きじゃくって、あまねが言う。
「馬鹿な奴」
 頼朝は笑った。そうして、あまねの涙を舌で拭う。
「大した怪我じゃねーんだ。でっけぇのは、胸の辺りの骨が砕けて、中が傷ついたくらいで……あとは、怪我が多くて、血が足りねぇ、ってだけ。餌はたらふく食ったし、少し……休めば」
「休ませるわけにはいかへんよ」
 澄み渡る声が響いた。
 あまねは、ぎくり、として振り返る。
 ……初め、橋に火柱が立ち上っているのかと錯覚した。
 それは、一人の武士だった。
 目の覚めるような紅錦の直垂に、赤から黄へのグラデーションがかった鎧を纏い、その兜下方や、鎧の袖、腰周りには、青空を力強く舞う蝶の紋が打ち付けられていた――――戦装束に身を固めた、重盛だった。
 鬼神のごとき彼は、けれど、やり場のない、苦悶と苛立たしさをその面に滲ませていた。
「何でまだ、こないな所におるんや、頼朝。大将は東国に落ちたで」
 彼は、咽を鳴らすようにして言った。
「そんなはず、ねぇだろーが。嘘ほざいてんじゃねーよ」
 よろり、と身を起こして威嚇する頼朝に、重盛は首を左右に振った。
「嘘やない。部下がぎょーさん、泣いて縋りおったんや。訳有りやって周りも理解しとる。十二分に大将は仁は示したぁ、ってな。まあ、結構無理矢理やったけど」
 思い当たる節があったのだろう。頼朝はそれ以上、言い返さなかった。
 ……会話が途切れる。
 重盛が一歩、歩みを進めた。
「あまね、よせ。どけてろ――――」
 頼朝の制止を無視して、あまねは、両手を広げると、重盛の前に立ちはだかった。
 表情を変えず、重盛は刀を抜き放つと、あまねの首筋に刃を当てた。
「お嬢ちゃん。ここは、戦場やで」
「知ってます」
「邪魔立てするんやったら、直愛には悪いねんけど、殺さなならん」
 あまねは黙って、沈痛な面持ちの重盛を見つめる。
「やめろ、重盛! 殺すならオレにしろ!」
 頼朝の制止にも関わらず、重盛は刀を振り上げる。
「や、め――――――」
 刃が陽光を照り返し、煌めいた。あまねは、瞼をきつく閉じる――――と。
 キィンッ
 甲高い、金属のぶつかる音。
 あまねが驚いて目を見開けば、一歩、二歩、と重盛がよろけて退いたところだった。
 重盛の手にしていた刀は、遙か後方に跳ね飛ばされていた。高々とそれは弧を描き、やがて、逆らうように欄干を斬り付けると、ぽちゃん、と川面に姿を消した。
 重盛は、痺れる左の手を右手で押さえた。
 グッと俯くそのこめかみに、青筋を浮かんだ。
「……あーくゥ源太ァ!」
 馬の蹄の音が、もの凄い速さで近付き、あまねの横を、疾風が過ぎる。
 馬が、重盛を引き殺さんと突進したのだ。
 素早い動きで、重盛が飛び退る。
 いななき、前足を高々と上げる馬に構わず、突進した勢いのまま、影が重盛に襲いかかった。
 義平だ。
 彼は、ギィンッと重い音を響かせて、二、三太刀、重盛に斬りつけると、軽々と間合いを取り、あまねの前に立った。
「あー、良かった。間に合った」
 濃紺色の直垂に、全体に龍王の散った白い鎧、白い兜……さながら、一幅の掛け軸から抜け出た、麗しい若武者だった。
「ごらぁ、おのれ! 痛いやんけ!!」
 義平はフンッと皮肉な笑みをこぼすと、長刀を持つ手を変え、片手で腰に刷いていた剣を抜いて、橋上に放った。
 そして、腹に響く凛々しい声を張り上げた。
「黄?の匂いの鎧に、蝶の裾金物――貴殿は平氏嫡流、左衞門佐重盛とお見受けした! 我こそは左馬頭義朝が嫡子、鎌倉悪源太義平!――――いざ、尋常に勝負!!」
「……あ?」
「ってなわけで、それ拾って構えなさいよ。首、ぶった斬ってやるから」
 義平は、自身の首をちょんちょん、と籠手をはめた手で示した。
 重盛は口元を引き攣らせた。
「えーぇ……度胸やん」
 重盛が剣を拾う。
 義平は、口笛を吹いて馬を呼び寄せ、その尻を叩いた。
 距離が離れたのを確認して、重盛に向き直る。
 義平が、長刀を構えた。
 重盛も、刀を構える。
「どォりゃァ――――――ッ!!」
 初めに動いたのは、重盛だった。
 踏み込むと同時に、ブンッと重い切っ先を振り下ろす。
 義平は、長刀をくるりと回転させ、右足を一歩引き、それを避けた。
 その勢いのまま、重盛に斬りかかる。
「…………ちぃッ」
 間一髪で、重盛が飛び退く。切っ先が、彼の前髪を数本、散らした。
「そーいえば、あなた、一回もあたしに勝てなかったわよねぇ」
「稽古と戦、一緒にするなや」
「じゃ、もうちょっと楽しませてくれるんだ?」
「調子乗ると、痛い目あうで。この……っ」
 重盛は言葉を飲みこむと、突き出される重盛の攻撃を弾いた。
 目前で繰り広げられる死闘に、あまねは声も出ない。
「まずい……」
 と、背後で頼朝が唸った。
 はた、としたあまねは、彼の口元に耳を寄せる。
 頼朝は、痛みに耐えながら、掠れた声で言った。
「人が、集まり出してる。囲まれたら……」
 ガチンッと鈍い音がして、あまねは顔をあげた。
 義平の振り下ろした長刀の柄を、重盛が鍔でもって押しとどめたのだ。
 力は重盛の方が遙かに上だった。暫くの押し合いの後、押された義平が蹌踉ける。その隙を逃さず、容赦なく重盛は義平の鎧を掴むと、押し倒した。血のこびり付いた、白い兜が脱げて転がった。
「ぐぅっ……」
 仰向けに転がった義平に、重盛は馬乗りになった。刀を逆手に構えて、振りかぶる。
「義平さんっ!!」
 息を飲むあまねの目前で、切っ先は間髪入れずに振り下ろされた。
 それを、義平は、紙一重で身体を左に揺らし、避けた。
 一瞬の、重盛の戸惑い。義平は彼の兜の後頭部を掴むと、その顔面を板敷に叩きつけた。
「ぬ、お…………」
 素早く、重盛の下から抜け出す。
 欄干間際のすれすれのところで、転がった長刀を足で蹴り上げ左手でキャッチした。
 右手を添えて構える。
 重盛は、首を振って立ち上がった。
 その背後に、あまねは銀が煌めくのを見た。
 ――――――矢だ!
「重盛様、助太刀いたします!」
 義平が退いた方に、逃げ場は無かった。
 無情にも欄干が壁を作り、その向こうでは鴨川がのどかに陽光を反射し、流れる……
「あかん! これは俺と悪源太の――――――」
 重盛の制止の声も間に合わない。
 びゅんッと宙を斬る音が、正確に義平を狙った。
 ストトトトトッ
 五本の矢が、重盛を越え、板敷に刺さる。
 重盛は目を見開いた。やがて、口の端を震わせると、小さく笑った。
「はっ……それでこそ、俺の友人や」
 いるべきところに、義平はいなかった。
 そして、重盛よりも優に高い位置から、長刀の切っ先が、彼の首筋を狙っていた。
「勝負――――あったわねぇ」
 欄干に、義平は立っていた。
 場に居合わせた者は、みな、武具をつけてなお、風のような身軽さを披露した義平に息を飲んだ。
 束の間の静寂を逃さず、義平は長刀を振り上げた。
「うっ……撃て! 撃てぇい!!」
「ああ、もう、邪魔……っ」
 時が再び流れ出したかのように、矢が飛ぶ。
 と同時に、馬に乗った部下が幾人も、義平に突進してくる。
 橋へと降り立った義平は、ひらりひらりと舞うように、矢を交わし、時に弾いた。
 重盛は動けないでいた。
 友から受けた殺気の衝撃が、完膚無きまでに負けたことへの衝撃が、色濃く、その面に滲んでいた。
「重盛様!!」
 義平は、難なく馬上の武士を斬り落とした。
 続いて、重盛に馬をあてがい、主を逃そうとする部下を容赦なく斬り殺す。
「お逃げください、重盛さ――――ぎゃあっ」
 重盛を守るように、武士が幾人も立ちはだかった。
「逃げるな、重盛」
 義平は、凍り付くような声で、重盛を挑発する。
 重盛は、ゆっくりと頭を持ち上げた。
 二人の視線が交錯する。
 火花が散る――重盛は、再び刀を握り直すと、部下を押しのけ、前へ出た。
「義平さん。引きましょう! 人が――――」
「うるさい!」
 あまねの制止の声を、義平は一蹴した。
 彼女では、今の義平を止めることはできない――あまねは焦燥感に寒気を感じた。平氏の兵が、集まってくる。
 ウォ―――――――――ンッ
 と、その時。
 獣の咆哮が橋をビリビリと軋ませた。
 今にも飛びかかろうとしていた義平は、はっとして頼朝を振り返った。
 弟の容態を思い出し、かつ、駆けつける敵の人数を把握し、彼は盛大に舌打ちすると、重盛から大きく距離を取った。
「………………あなたの首は、あたしのもんよ。勝手に死ぬのは許さない」
 くるりと背を向け、背中越しにそう吐き捨てると、離れていた馬を呼び寄せ、頼朝のもとへと走った。
 よろりと立った頼朝が、あまねに背に乗るよう促す。
 その彼女を、馬に乗った義平は掠うように脇から抱え上げ、さっさと馬を走らせた。その背を、苛立たしげに、頼朝が追う。
「やめぃ、っちゅーとるやろ」
 重盛は、両手を広げて、矢を放とうとした部下たちを制止した。
「あれを殺すのは……俺や」
「しかし……」
 遠ざかる義平、頼朝兄弟に、無念だと言い募る部下だったが、重盛の壮絶な笑みを目にして、口を噤んだ。


 源氏、都を下る。
 一二月二〇日……あまねの知る歴史よりも七日早い、風が激しく吹く、晴れた日だった。
 戦の倣いとして、敗走した義朝の堀川邸は火をかけられた。
 それは強風に扇がれ、無関係な民家数千軒をも燃やした。
 煙は、昼の京を闇に染め上げた。