刻の守護者

止められぬ、別れ(1)

 東の切り窓から、うっすらと光りが差し込んだ。
 朝が潮のように夜を追う。続く、ちゅんちゅん、と、可愛らしい雀の囀り……。
 膝を抱えていたあまねは、ぼんやりと顔を上げた。
 涙跡をこすれば、ざらり、と頬は乾燥して粉吹いていた。
 板敷に直に座っていた尻は冷えに冷えており、心無し咽も痛い。
 固く閉ざされた戸を見遣る。
 戸の外では、忙しなく人が往来する気配がした。
 廊下の軋みが、室内まで伝わってくる。
 ……そっと、あまねは戸に近寄った。耳を寄せて、気配を探る。
 西の方が騒がしかった。
 戸の近くに、あまねを監視するような人の気配はなかった。
 彼女は、そっと駄目もとで戸を押してみる。
(…………開いた)
 何とか通れるほど開けて、あまねは身体を斜めにして外へ出た。
 誰も彼女を気に掛ける者はなかった。
 武具を持って走る女中、運び込まれる怪我を負った武士……。
「おぉい! 源氏の奴ら、五条河原に陣を張ったらしい」
 大声をあげて、下人が飛び込んでくる。あまねはさっと身を隠す。
「何だって!? 清水橋は落としたと言ったじゃないか!」
 女中がぞろぞろと集まってきて、男を囲んだ。
「橋ぃ、落とす前に奴らきちまったんだよ」
 悲鳴があがる。
「だが、そんなん小さな問題だ。やべぇのは、犬神憑きだよ。あれが怨霊を呼んじまってて、戦にならねんだ」
「ああ、そんなら大丈夫さぁ。さっき陰陽師の兄さんが出ていったから」
 年かさの女が、下男の背中を叩く。
 ホッと一同が胸を撫で下ろす……陰陽師と言われたのは、直愛のことに違いない。
「重盛坊ちゃんも出て行ったよ!」
 若い女が声を張り上げた。
 それに、「えっ」とみなが目を丸くした。
「そりゃ、本当かい? 随分、渋ってたようだったが」
「あたし、この目で見たよ」
 ……あまねは、そっとその場を離れた。
(これは、何の戦なの?)
 歯を食いしばって、西を目指す。
(どうして、申し開きすらさせてくれないの? どうして、信頼さんはあんな嘘を……)
 分かりきったことだった。
 清盛は、急進的に力を付け始めた源氏を邪魔に思い、信頼は……自分の罪をなすりつけるため、頼朝を告発した。
 けれど、あまねは問わずにはいられなかった。
 理不尽な、不条理な、この戦に納得ができない。
     ……やがて打ち落としまいらせて
     衣を引きかづけ……
 朝長は、死んでしまう。義平も死んでしまう。義朝だって、死んでしまう。
 あまねに優しくしてくれた人たちが、頼朝の大切な家族が……死んでしまう!
 納得などできるはずがなかった。
 何もせず、終わるのを待ってなどいられなかった。
(私には、何もできない。だからって……何もしないなんて、嫌だよ)
 ……そうは思ったはずなのに、六波羅の邸宅を出る間際、あまねは恐怖に取り憑かれて、動けなくなってしまった。
 自分の未来は保証されていない――直愛の言葉が重くのし掛る。
 耳に飛び込んでくる、金属がぶつかり合う音。断末魔の悲鳴、地を這う呻き声に、飛び交う怒号。
 あまねは鼻孔を擽る死臭に、口を覆うと座り込んだ。
 目前で行われているのは、命の取り合いだ。
 ……そんな中に飛び出して行って、何になるのだろう? あまねは両手を組むと、額を押しつけた。
 自分は、千人力の武将であるわけでもない。
 何かができるわけではない。
 そして、飛び出したが最後、死ぬかもしれない。――父親や、兄弟にも、友人にも――誰にも、知られずに、消える。そんな危険を犯してまで、行く価値があるだろうか。
 あまねは、頭を抱えて首を振った。
 そんなことを考えたいわけではない――――あまねは、歯を食いしばる。
「パパ……」
 ここへ来たばかりの頃、見た夢が脳裏を過ぎる。
 生きたいように生きたら良い、と、父は言った。
 ――――――あまねは、どう生きたい?
 不意に、耳を突いた声。
 何かに引かれるようにして、あまねは顔を上げた。
 目前で繰り広げられる喧噪が急激に遠ざかる。
(ここで逃げて、生きて。私は、私を許せるのかな)
 両の手を見下ろせば、小刻みに震えていた。
 いつの間に傷を負ったのか、足の脹脛に血が滲んでいた。
 死ぬと言うことは、もっと、ずっと、痛いものだ。
 怖い。
(怖い…………死にたくない。怖い。怖い)
 行けない理由の自己弁護はいくつも出てくる。
 今、あまねが動けなくとも、誰も責めるわけがなかった。
 直愛だって、行ってはいけないと言った。
 上司の言うことは聞かねばなるまい……そんな言い訳は、腐るほど用意できた。
 けれど。
 けれど――――いずれ、本心から、自分を許せる時がくるとしても――――あまねは、今の恐怖よりも、その時まで苦しむ時間を、恐ろしく感じてしまった。
「………………大丈夫」
 あまねは、手の甲で目元を力強く拭った。
 笑う膝を伸ばし、姿勢を正した。
 ゆるりと瞬きをしてから、真っ直ぐ、戦に対峙した。
 そして、か細く深呼吸を一つ。
「私は、頼朝の側に…………いたいんだ」
 ――――あまねは、震える足で、地を蹴った。