刻の守護者

紅の約束(2)

 そっと、息を潜めて。
 そっと、気配を殺して。
「………………見つけた」
 あまねの唇が、音にならない声を象る。
 数日ぶりの頼朝は、雪が斑に積もる地に寝そべっていた。
 寝ているのか、起きているのか、目を閉じて、じっとしている。
 頼朝は、家に帰ってこないわけではなかった。
 ただ、あまねとだけ会うのを避けていた。
 屋敷の何処かにはいつもいるのだ。
 あまねは、それが歯がゆい。
 息を大きく吸って、止める。音の鳴らないように、足音を殺して近付いて――――ハッとした頼朝が振り返る。逃げようと身を起こす。あまねは――指先だけでも、と思い切り手を伸ばした。
「どぅわあああああああッ!?」
 見事に、頼朝は吹っ飛んで、木に激突した。
 ここ数日の雪で、固く積もった塊が、どすっと重たい音を立てて、彼の上に落ちた。
「……やっと、捕まえた!」
 あまねは、近くに置いたブレスレットを手に巻き付けると、雪まみれになった頼朝のもとに駆け寄った。
「頼朝さん!」
「お前、見た目に寄らず暴力的だよな!?」
 雪山から、顔を覗かせて、頼朝が吠える。
 あまねは、慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! だけど、こうでもしないと頼朝さん、逃げちゃうから」
「今一瞬、オレの中身はあの世まで逃げ切りそうになったがな!」
 言って、彼はブルブルと身体を振った。
 冷たい飛沫に、あまねは袖で顔を覆う。
 いつもの調子に、ホッとあまねが安堵したのも束の間……頼朝はそっぽを向くと、うち沈んだ声で、続きを促した。
「で。何だよ」
 あまねは、深呼吸を一つしてから、唇を開いた。
「直愛さんから聞いたかもしれないんですけれど、これから私が――――――」
「断る」
「え……」
 即答だった。
 まだ、何も説明していない……あまねが抗議しようと唇を尖らせれば、
「四六時中、お前と一緒にいなきゃならないなんて、嫌に決まってんだろ」
 ぴしゃり、と頼朝は言い放った。
 あまねは、二の句が継げずに口を噤む。
 ……あまねは俯いた。
 確かに、と彼の言葉を納得する自分がいた。
 いつも付きまとっていたのは自分だった。
 色々あったけれど、あまねは楽しかったし、だから、頼朝も一緒で楽しんでくれていると思っていた。
 けれど、それは自分勝手な解釈でしかない。
 何だかんだと頼朝は一緒にいてくれたから、疑うこともしなかったが、本当はもの凄く嫌だったのかもしれない。
 あまねは、真っ青になった。
 もし、ブレスレットを付けることになったら、今まで以上に、共に過ごさなければならないだろう。彼が断るのも最もだ。
 痛いほどの沈黙が二人を包む。
「…………ご、ごめんなさい」
 あまねは、拳をぎゅっと握りしめて、声を絞り出した。
「そうですよね。私、頼朝さんのこと、全然考えてませんでした。本当に、ごめんなさい」
 あまねは顔を上げた。
 何故だか分からないが、胸がじくじくと痛んだ。
 けれど、ここで涙を見せるのは卑怯だ。あまねは、無理矢理笑顔を作ると、続けた。
「直愛さんに他の案を聞いてみます。あ、大丈夫です。彼は本物の祓魔師なので、私なんかより、ずっと頼りになりますし。不安にならないでくださいね。絶対に、犬神祓いは成功します」
「あ……」
 一気に言ったあまねに、頼朝が気まずそうに髯を揺らす。
 あまねは、勢いよく頭を下げた。涙腺が崩壊するまで、あと数秒とない。
「本当に、今までしつこくしてごめんなさい」
 上ずった声でそう告げて、踵を返す。
「ちょ、ちょっと待てよ」
 制止の声に、あまねはビクリ、と足を止めた。
「はい?」と、至極明るい声で応える。が、振り返ることはできない。
 頼朝は暫く逡巡した後、ぼそり、と呟いた。
「………………お前は、オレのこと、怖くないのかよ」
「怖い? どうし――――――」
 あまねは、それが、信頼宅のことを言っているのだと、瞬時に理解した。
 一瞬、赤と黒の入り乱れた夜が脳裏を過ぎり、あまねはゴクリと咽を鳴らす。
 そんな彼女の恐怖を見抜いたように、頼朝は自嘲するような薄笑いをこぼした。
「怖い、だろ? オレ。あん時、本気でオレは……お前のこと、殺そうとしたんだ。こんな奴の側にいるとか、お前だって嫌だろーが」
 心なし、頼朝の声は震えていた。
 あまねは、頼朝の言葉を反芻して、瞬きを繰り返す。
 やがて、彼の優しさに気付くと、ゆっくりと振り返った。
「正直、あの時の頼朝さんは怖かったです」
 ここで怖くないと言っても、繊細な彼は簡単にあまねの嘘を見破るだろう。
 あまねは、ハッキリと嘘偽りのない思いを告げた。
 頼朝は項垂れている。
 あまねは、一歩一歩、歩み寄った。
「でも、あれは犬神であって、頼朝さんじゃないし」
「お前を噛み殺そうとしたのは、この牙だ!」
 触れようとした矢先、頼朝は激しい動作で顔を上げた。燃えるような瞳で、激昂する。
「お前を噛み殺そうとしたのは、正しくオレなんだよ!!」
 心が粉々に砕けてしまいそうな、痛い叫びだった。
 あまねが触れようと伸ばした手は、中途半端に止まってしまった。軽々しく触ってはいけない気がした。
「――――――オレは、怖いんだよ。お前を側に置いておくのが。また……また、傷つけるんじゃないかって」
「ごめんなさい。あれは私の不注意だったんです。あなたは、腕輪を外せと言ってた。なのに、私が外し忘れて――――」
「そんなのは大した問題じゃないんだ。問題なのは、お前を殺そうとしたのが、オレだってことで」
「だから、それは」
「本当に犬神か?……オレじゃないのか? その腕輪で、犬神を抑えたとして……本当に、オレはお前を殺そうとしないのか? あの時のオレが、オレなら……オレはまた、お前を殺そうとする。そんなの…………耐えられない。オレはオレを信用できない!」
 その時、あまねはハッキリと直愛の言葉を理解した。
 人には怒りの感情がある。激昂と共に、破壊衝動に飲まれることもあるだろう。そうなった時、普通の人は、それを自分自身のものとして理解できる。が、犬神憑きは、それが自分のものなのか、犬神のものなのかの判断を下さねばならない。
 頼朝は、人を傷つけてしまった。
 それを、都合よく犬神のせいにはできないほどに……彼は、優しい心を持っている。
「大丈夫です」
 あまねは、思い切って頼朝の頭に触れた。雪で湿った毛は、冷たかった。
「頼朝さんは、犬神じゃありません。とても優しい人だから」
 頼朝は黙って地面を見つめている。あまねは、なんとかして想いを伝えようと必死になった。
「知り合って間もない私が言っても、軽々しい感じがしますが……頼朝さんはとっても優しいです。私や、義平さんたち家族のこと、傷つけたくないから、遠ざける。そんな人が、優しくないはずがないんです。あんな風に人を傷つけるはずがないんです」
 傷つけてしまった現実があり、だから、臆病になってしまっている。遠ざけることが根本的な解決方法ではないと、頼朝自身も理解はしているだろう。けれど、自分に自信が持てないのだ。
 どう頑張っても駄目なのではないか。
 また、失敗するのではないか。
 彼の場合、失敗した時の失うものが大きすぎた。それは、チャレンジするのも怖くなるほどに。
「……わたし、十歳の頃にママが死んだんです」
「まま?」
 不意にあまねが呟いた聞き慣れない言葉に、頼朝が顔を上げる。あまねは両手で頼朝の頭を撫でながら続けた。
「あ。お母さんの事です」
「何だよ、突然……」と、不機嫌そうにぼやくも、頼朝は話の続きを待った。
「私の家族は、パパ――お父さんと、弟、二人のお兄ちゃん、私、ママの六人でした。それで、ママが死んじゃって、哀しくて。だけど、家族全員が家のことは全部、ママに任せっきりだったから、家が回らなくなっちゃって大変でした」
 身分ある頼朝からしたら、親が家を切り盛りするというのは、訝しげに思うに違いない。けれど、彼は黙って耳を傾けていた。
「お母さんが死んだら家の中がしっちゃかめっちゃかになっちゃったんです」
 あまねは、当時のことを思いだして、クスリと小さく苦笑をこぼす。
 母がいなくなって、家の中は色を失ったように静かになった。家族の誰もが、互いを気遣って明るく振る舞おうとした。悲しむことを、母は望んではいない――――だからこそ、悲しみが浮き上がった。
 泣きたくても泣けない弟を抱いて、幾つの夜を過ごしただろう。けれど、いつまでも悲しんでもいられなかった。お腹は空くし、掃除をしなければ塵も溜まる。父には仕事があったし、双子の兄たちも大学受験を控えた身だった。
「自然と私が家事をするようになったんですけど……なかなか思った通りにいかなくて。料理は美味しくないし、掃除も要領悪くて時間がかかって……しかも、大して綺麗にもならないし。私、何しても駄目だなぁって、落ち込んで」
 頑張れば頑張るほど、うまくいかないように感じた。母がいない。だからこそ、しっかりして家族を支えたい。なのに、何て自分は無力なんだろう。あまねは、大切な家族を支えられもしない自分が……嫌だった。
「でも、ある時、届かなかった棚の上に物を片付けられるようになったんです」
 それは、本当に些細なことだった。
 いつも椅子を使って、食器棚の上に、ティッシュ箱のストックを片付けていた。それが、椅子を使わず、背伸びするだけで届いた。その時、あまねは、はっとした。
「背が伸びてたんですね。それで、出来る事が一つ増えたって気付いたら、少しだけ気持ちが楽になりました」
 それだけでは無かった。改めて自分を振り返ってみれば――、ささやかなことの積み重ねだったが――一つ、一つ、知らずうちに、できることは増えていた。料理のレシピだって増えていたし、掃除の速度だって上がっていた。
「本当に下らない事だけど……私、成長するんだって。その時、分かったんです」
 あまねは、そう言ってから、顔を綻ばせた。
「だから、えっと、何が言いたいかと言うと、今はできなくても、頑張ってるうちに、気がついたらできてるってこともあるんです。そりゃ、私なんかの問題とあなたの問題は全然違うし、あなたのは、もっとずっと大変なことです。だけど」
 頼朝の瞳をじっと見据えて、あまねは言った。
「できないなんて初めから否定しないで、頼朝さん。今、あなたが怖いと思ってることも、諦めなければ、いつか絶対に、大丈夫になる日がくるから。なんとかなる、ってドーンと構えてましょう」
「…………なんだよ、それ」
 頼朝は、口元を歪めて目線を逸らす。あまねは、耳の後ろを撫でながら、つけ加えた。
「それに、あなたは一人じゃないんです」
 ピクリ、と頼朝の耳が動く。
 あまねは、一人で頑張ってきたと思っていた。
 けれど、不意に感じた自分の成長に、一歩下がって辺りを見渡してみれば……いつだって、家族の支えがあった。
 成長するのは自分だ。
 でも、それまで頑張ろうと思えたのは、見守ってくれる人の温かさがあったからだ。
「私だって……義平さんだって、朝長さんだって、お父さんだって。みんなみんな、あなたのこと、心配してます。応援してます」
 頼朝が項垂れる。
 あまねは何とか彼を励まそうと、更に明るく言い募った。
「もう、私もあんなヘマしません。犬神なんて、ちゃちゃっとやっつけちゃいましょーよ。ね?」
 あまねは、ボクシング選手のように、シュッシュッと拙い拳を繰り出した。
 その形で頼朝を振り返る。と、彼はよろよろとあまねに近寄った。あまねが、次の言葉を待って、動けずにいれば、彼は、そっとあまねの左腕に顔を寄せた。
「………………よ、頼朝さん?」
 彼は味わうように、もたれ掛かった。
 あまねはきょとんとした。――――と。
「……これ、よこせ」
 ボソッと、頼朝の不機嫌そうな声が落ちた。
「は、はい。……はい!!」
「だが、いいな。オレが犬神に飲まれたその時は――――躊躇無く、殺してくれると約束――」
「嫌です」
「お前な…………」
 間髪入れずに、あまねは首を振った。そして、白い歯を見せて、笑う。
「そうならないように、一緒に考えましょう」
「楽観的過ぎだ」
 頼朝は諦めたような溜息を吐いた。けれど、あまねを見つめる細めた目は、どこまでも優しい。
「じゃ、付けますね」
 あまねは、しゃがみこむと慎重にブレスレットを取った。それから、頼朝に触れないよう、極力気を使いながら、彼の右手に巻き付ける。
 何とか成功し、二人して詰めていた息を吐き出す。
「あ……」と、あまねは小さく息を飲んだ。ピシリッと軋む音を聞いたような気がしたのだ。ブレスレットに目を凝らす。と、ここへ来た時に入ったひびが、前よりも大きくなっているのに気付く。が。
「さっ、さっびいいいいいいいいいい!!」
 ブレスレットへの一抹の不安は、頼朝の悲鳴で霧散した。
 はた、としたあまねは、いつの間にか、ブレスレットを付ける手が、毛むくじゃらでなく、人の肌であるのに気付いた。
 ぎょっとして退けば、目前に、腰巻を巻いただけの姿の、一人の少年が、鳥肌の立った全身を両手で抱いて震えていた。
「服!! 服っ!! 家ン中でやるべきだった!!」
「よ、頼朝……さ、ん?」
 腰ほどまでに伸びた、黒く長い、乱髪。雪のように、白い肌。
 つり上がった一重の目を縁取る、影を落とす長い睫毛。
 唇から覗く、尖った八重歯に……頭にはシェットランド・シープドッグの耳のような、長毛に包まれた半直立耳が生えていた。
 尻の中央からは、リスの尾に似た、毛の多い尻尾が伸びている。
「ああ? さささ、さっさと、家、家、家ン中入るぞぞぞ」
 カチカチ歯を鳴らして、屋敷へ向かおうとする。
「だあああ! 二足歩行って鬱陶しいな、おい!」
 ぶつくさ文句を叫ぶ彼に、呆然と立ち尽くしたあまねは、言い放った。
「頼朝さんって、頼朝さんって……私より年下?」
「はあ!? 何でそうな――――」
 青筋を浮かべた頼朝は、あまねを振り返り、言葉を飲む。
 背が、あまねより小さいのだ。
 それもそのはずで、あまねが辿り着いた時代は平治元年。
 歴史書を紐解けば、頼朝はまだ一三歳である。あまねの弟、晟と同じ年だった。
 頼朝は、暫く自分とあまねの身長差を複雑な表情で睨め付けていたが、イラッと口元を歪めると、右腕のブレスレットに手を伸ばした。
「やっぱ、これ外……」
「駄目!!」
 あまねの、聞いたこともないような力強い声に、頼朝はびっくりして顔を上げた。
 目を、きらきら輝かせ、頬を上気させるあまねに、頼朝はツッ……と背中に寒気を感じて退いた。
「駄目。駄目です。外すなんて絶対駄目、で…………ぷ、くくくく」
「何で笑う!?」
「だ、だって、その耳と尻尾……か、かわ、可愛いっ……」
「はあ!?」
 あまねの手がにゅっと伸びて、頼朝の犬耳に触れる。
 尻尾を立てて威嚇する彼に、ますますあまねの胸は高鳴った。
「ちょ、耳を引っ張るな! 痛い! 痛いんだよ!!」
「凄い。本当に生えてる。頭にくっついてる。耳は? 人の方の耳はどうなってるんですか?」
「いい加減にしろ――――――!!」
 無理矢理取ろうとも、犬神を祓うためと言われては、頼朝に外すことはできない。
 彼は歯軋りするほど怒ったが、大人しくあまねの制止を受け入れざるを得なかった。
 もちろん、義平にも同じ扱いをされた――いな、それ以上に、思い切り可愛がられたのは言うまでもない。