刻の守護者

紅の約束(1)

 濃緑の狩衣を身にまとい、頭に烏帽子を乗せた直愛は、どこからどうみても、平安人だった。
 とある貴族のもとに身を寄せているらしい彼は、今は、あまねの客人として、源氏宅にやってきていた。
「一応、君がどの時代のどこに行ったのか、記録には残っていたんだけど……突然、いなくなったから。肝が冷えたよ」
「すいません……」
「いや、君が謝ることじゃない」
 頭を下げるあまねに首を振り、直愛は白湯に口を付けた。
 安堵の白い息を吐き出して、彼は続けた。
「社員以外は動かせないはずなのに、動いてしまった、あれに問題があったんだ」
 言って、彼は膝を擦ってあまねに近付くと、両肩を掴み、ガクリと項垂れた。
「でも、本当……本当に、無事で良かったぁ」
 肺が空っぽになるほどの溜息には、様々な感情がこめられていた。
「――にしても、君はしっかりしてる。突然、刻を駆けたにも関わらず、仕事してるんだもの」
「とんでもないです! どちらかと言うと、頼朝さんに運良く拾っていただいて、頼み込んだら快くオーケー貰えて、面倒を見ていただいていたと言うか……その、ありがたいことです」
 直愛は、まくしたてるあまねにきょとんとしてから、彼女の肩を軽く叩いて微笑んだ。
「謙遜しなくていいんだよ。君はしっかりしてる」
 一拍の間があって、あまねの頬は赤く染まった。
「そっ、それで、頼朝は……頼朝さんの身に、何が起こっているんでしょうか」
「うん? ああ、そうだね。きちんと説明しなくちゃね」
 慌てて矛先を変えたあまねに苦笑を漏らしてから、彼は懐から文庫本大の紙束を取り出した。それから、問うた。
「あまねちゃんは、犬神のことはどこまで知ってる?」
「簡単なことしか」と前置きしてから、あまねは夢で見た父の言葉を繰り返した。
「犬神憑きは怨霊を呼び寄せ、それを喰らい続けた後、犬神そのものになってしまう恐ろしい呪いだ……と。それが、具体的にどういうものなのか、とか、どうやって祓うか、とかはさっぱりで」
「それだけ知ってれば、十分」
 直愛はニコリと笑った。
「君も気付いている通り、犬神は怨霊を呼び寄せる。と言っても、始終怨霊に襲われるわけじゃない。きっかけとなる何か――俺が見たところ、彼の場合は、血が流れ出るほどの怪我を負った時だね。そういう時に、わっと襲われる」
「ああ、だから……」
 あまねは、信頼宅で突然怨霊たちが襲ってきた時のことを思いだし、頷いた。
 直愛は続けた。
「祓い方はね、チョー簡単なんだ。犬神憑きの者が、犬神と自身は別者だと確信すれば良いんだよ。それだけで、犬神はもう、その人間に憑けなくなってしまう」
「え……そ、それだけなんですか?」
「そうさ。だけど、人はみんな、犬神に負けず劣らずの獣性――残虐な思いを胸に秘めてる。そんな部分を認め、しかし、犬神と自分はあくまで違うのだ、と決別するには強さが必要になる。とりわけ、犬神憑きは生まれた時から犬神と共にあるから、決別するって言うのは、簡単じゃない」
 あまねは、不意に、左腕に巻きつけたブレスレットを右手で触れた。
「頼朝の場合、かなり同化が進んでいるから、手間取るかもしれないね」
 直愛は眉をハの字にして嘆息する。
 その彼に、あまねは、おずおずと脳裏を過ぎった考えを口にした。
「…………あのぉ、これって役に立ちませんか?」
「それは……」
 差し出された左腕を見て、直愛が目を瞬く。
「これじゃ、根本的な祓いにはならないんですけど……犬神と、それこそずっと一緒にいた人が、犬神と自分は別者だって思うのって、なかなか難しいと思うんです。だから、一時期、これで犬神を抑えてみて、自分自身を見つめ直す期間を設けたらどうかなぁ、って」
「確かに……だけど、君はいいの? それは、お父さんがくれたものだろう?」
「お父さんって、あんな職業だから、先見の明があるっていうか。どことなく、先を読んでる節があるんです。これも……きっと、頼朝さんに渡した方が自然な感じがします」
「……君がそう言うなら、そうなんだろうね」
 直愛は、ふむ、と顎に手をやり頷くと、立ち上がった。
「よし。じゃ、さっそくあまねちゃんの言った方法で、犬神祓いミッションに取りかかろう」
 きょとんとするあまねに、彼は片目を瞑ってみせた。
「彼がハッキリと自分と犬神は違うと認識できた時、祓いの儀式を行うんだ。彼から抜け出た犬神には、俺がとどめを刺す。あまねちゃんは、引き続き――と言うか、今まで以上に、頼朝のボディガードとして側にいて欲しい。犬神を抑えても、呪いを抑えるわけじゃない。身を守る術を失った彼に、怨霊たちは容赦しないだろうから」
「はい」
 直愛の手を取って、立ち上がったあまねは力強く頷いた。
「心強い返事をありがとう。ささっと終わらせて、現代に帰ろうね」
 言って、彼は肩を竦めて付け加えた。
「ここの食事は、ちょっと俺には厳しいんだ」
 確かに、味付けの殆ど無い野菜や、歯ごたえがありすぎるか、なさすぎるかの極端な食事は現代人にとっては好き嫌いが分かれそうだ。
「――――あ、っと。そうだ」
 縁側まで歩んでいた彼は、ふいに立ち止まるとあまねを振り返った。
「お土産」と言って、持って来ていた風呂敷包みをあまねに手渡した。
 開いて中を見れば、あまねのいた時代での売れ線筋の黒い下着――水分を吸収し、繊維自体が発熱するシャツと股引――と、厚手の足袋――唐辛子のカプサイシン加工されたもの――そして懐炉などの防寒具が入っていた。
「あとは、これ。渡しておくね」
 最後に、彼は先ほど目を通していた文庫本大の書類の束を、あまねに差し出した。
「この時代の資料だよ。要人たちの相関図とか、これから何が起こるのか……知っておけば、安心だろう?」
 受け取ったあまねは、パラパラと捲って、目眩を感じた。
 小さな黒い文字がびっしりと書き込まれている……
「今後はますます政情も不安定になるし。これに目を通しておけば、どんなことに巻き込まれても、最低限の冷静さを失わずに済むと思うんだ。まあ、怨霊や、俺たちのせいで、変わってしまった過去もあるけれど。あくまで参照程度に」
「は、はーい……」
「くれぐれも、身体には気をつけて」と念を押して、直愛は去っていった。
 あまねは、彼を見送ると、とりあえず、後で時間を設けて本を紐解こうと決め、懐にしまい込んだ。
 正式に源氏は直愛に犬神祓いを依頼した。
 直愛は、あまねと供に精一杯頑張ります、と応えた。
 が、彼も客人として留まる家があるため、あまねはこのまま、彼とは離れて源氏邸で過ごすことになった。
 翌日。
 早速、件の話をしようと、あまねは頼朝を捜したが、頼朝は姿を見せなかった。
 信頼宅の一件以来、彼は出会った頃以上に徹底的に、あまねを避けていた。