刻の守護者

再会(2)

 頼朝は、出仕する以外は、ほとんど家にいたが、決まって夕方から姿を消した。
 昼間に出かける際は、いつもあまねを連れるようにはなったものの、決して、その夜の散歩にだけは、あまねの同伴を許さなかった。
「わあ、本物の馬だ」
 肌着を縫っていると――何もすることがなく、かと言って何もしないのも気が引けて、あまねは女中に色々と仕事を教えてもらっていた――、中庭にたった今、毛並みを整えられた黒毛の馬が引かれてきた。
 馬を近くで見るのは初めてだったあまねは、目を丸くして見入った。
 と、縁側で寝転がっていた頼朝が欠伸のついでに言った。
「乗りたきゃ乗っていーぞ。義平の馬は乗り手を選ばない」
「えっ。で、でも、私、乗れないし」
「はあ? どこのお姫様だよ。六とか七とかのガキだって走らせてるってのに」
「私がいた所じゃ、そもそも馬を見るのだって珍しいんですー……」
 唇を突き出し、そっぽを向けば、頼朝は軽い足音を立てて、地に下り、あまねを振り返った。
「こいよ。教えてやる」
 馬を引いてきた従者に手伝われながら、あまねは怖々と馬に跨がった。
 義平の馬は、じっとあまねを待っていた。
 頼朝が手綱を咥えると、慎重にそれは歩み始める。
 人の目に触れない道を進み、鴨川を越えて郊外へ。加えて、北上する。物寂しい広場を抜けて、森へ。
 しん、と静まり返る緑の中を、穏やかに馬は駆けた。
 初めての乗り心地に、最初は戸惑ったものの、あまねはすぐに慣れた。
 心地良い揺れに、開放感。澄んだ空気が口に甘い。
 森の濃緑、頭上には目の覚めるような蒼が広がる。
 時折、耳をつく野鳥の囀り……馬が驚くだろうからと自重したが、あまねは、両の手を広げて叫びたい気持ちだった。
「お前の国じゃ移動する時はどうすんだ? 歩行じゃ時間がかかり過ぎだろ」
 不意に頼朝が口を開いた。
「もっと早いのがあるんですよ。自動車とか………」
「ジドウシャ? 何だそれ」
 周りの景色に圧倒されて、ぼんやり返答したあまねは、はたとした。
 無闇に未来のことを過去の人間に話してはならない――ルールを思いだしたのだ。
 あまねは、辺りを恐る恐る見渡してから、声を落とすと早口に応えた。
「えっと、牛車みたいなもの? ですかね。でも牛が引くんじゃなくて、車自身が動くと言うか」
「どうやって」
「………詳しくはよく、分からないんですけども」
 頼朝の言及から逃れるように、あまねはもごもごと言葉尻を濁す。
 頼朝は首を傾げた。
「ふーん……牛車が一人で走るのか。しかも馬より早くだと? 尻が痛くなりそうだな」
 と、その時だった。
 馬の耳がピクリと動いて立ち止まる。
 見れば、道端に鹿が顔を覗かせていた。
 それは、あまねたちに気付くと、ひょい、と踵を返して森の奥へと消える。
「鹿!! あっ! 野ウサギもいる!!」
「そんなにはしゃぐことか?」
「だって、見たことないんです!」
 あまねは辺りをきょろきょろ見渡した。
 やがて、目を閉じると、ほぅと白い吐息を吐いた。
 東京の喧噪が、遠い昔に思える。
 穏やかな、梢の詩。鳥たちの歌。風の唄。青空を流れる、白い雲。
 そして、深く静かな、森。
「凄い緑……飲まれそう」
 あまねは、目を閉じて大きく息を吸った。
 森は静謐でいて、何処か懐かしく、胸がわくわくし出す。
「――もう少し、早く走っても良いですか?」
「あん?――――いいぜ?」
 頼朝がニヤリと笑う。
「絶対に手綱は離すなよ」
「はい」
「よし。太ももに力入れて、馬の腹を全力で押さえろ」
「こ、こうですか?」
「そう。そのまま足の力は抜かねぇで……ああ、突然、脇腹とか蹴るんじゃねぇぞ――――」
 尻の居心地が悪くて、座り直した時だった。
 ――鐙にかけていた足が滑った。その拍子に、右足が馬の脇を蹴っていた。
「ひっ………………」
「あっ、ばか! ちょ、待て……ッ」
 馬が飛び上がって走り始める。
 あまねは振り落とされそうになりながら、懸命にしがみついた。
 身体が上下に激しく揺れた。棒で打たれるような痛みが、臀部に走る。
「痛い痛い痛い、お尻痛い!」
「いいか、そのまま足で腹を挟んで……」
 隣を併走しながら、頼朝が指示を飛ばす。
「むっ、無理で、っす! あ、足、離れちゃ………ッ」
「黙っとけ。しゃべってっと、舌噛むぞ!」
 あまねは歯を食いしばった。
 が、やはりまだまだ初心者には余りに無茶が過ぎた。
 振り回され、必死に手綱を掴んでいたものの、綱はスルリ、とあまねの手から抜け出した。と、そのまま馬上から放り出される。
「いっ……」
「あ、危ねぇなッ! 絶対、手綱離すなって言っただろーがッ」
 勢いよく振り落とされたあまねを、さながらマットのように受け止めた頼朝は、痛みに顔を顰めた。
 慌てて背から飛び退く。
 頼朝は全身を震わせて砂埃を叩き落とした。
「あと、鐙に足を突っ込み過ぎんな。落ちた時、引きずられるぞ」
「はい……」
「……ったく」
「調子に乗りました。……ごめんなさい」
 あまねはしょんぼりと肩を落とし、頼朝の溜息に、ますます身体を縮こまらせた。
「怪我は」
「この通り、元気です」
「なら、いい」
 頼朝は安堵するように、鼻を鳴らした。それから馬が走り去った方角を見遣って、天を仰いだ。あまねもその視線を追う。
 東の空に薄紫が滲み、重い雨雲がゆるゆると京の町に向かって流れてくるのが見えた――いつの間にやら、都を見下ろせるところまで、馬を駆っていたらしい。
「どーだった? 思いっきり走るって、気持ち良いだろ」
「……お尻が痛いです」
 恐怖も落ち着くと、興奮に、わっと体温が上がった。
 身体中がポカポカし始めた。熱気が放出できず、肌がじっとりと湿る。
 内股は痺れて感覚がなかった。近々、必ず酷い筋肉痛に苛まれるだろうことが予測されて、あまねは自分の短慮に、げんなりする。
「尻の痛みはそのうち慣れる」
 頼朝はそう言って笑った。
 と、彼はふいに都を見下ろすと真剣な声を落とした。
「……お前、今上陛下が御病気だって知ってるか?」
「キンジョウヘイカ?」
「お前、ほんっとうに何も知らないんだな」
 首を傾げるあまねに、頼朝は肩を竦めると教えてくれた。
 今上陛下――現在、都を統べる二条天皇のことだ。
 その貴いお方が病の淵にあるらしい。
「今この国には二人の王がいる。二条天皇と、その父君・後白河上皇だ」
 本来、政は天皇が行うものだが、現在の政治は、余力のあるうちに引退した天皇が上皇となり、若き天皇の後見をすると言う形態――「院政」を取っていると言う。
 その政治形態に問題はないものの、政治の担い手に問題があって、現在朝廷は二つに割れていた。
「まあ、簡単に言うとだな、上皇様は中継ぎでしかなかった。だけど、それが先の戦で力を増し、正統な皇統にある二条天皇に政治を返さず、自分の思い通りにできる皇子を跡継ぎに、と考えている――と。今、朝廷は、後白河派と二条派に別れてる。オレたちが親しく付き合っている藤原信頼は後白河派、重盛の平家は……信頼と縁戚関係があるけど、まぁ、いろいろあって、中立を保ってる」
「その二条天皇が今、ご病気なんですね」
「そうだ。で、人々は噂してる。先の戦で亡くなった者たちの祟りなんじゃねーか、って」
「祟り……」
「だけど、オレは、呪詛されてるんだと思ってる」
「呪詛?」
 物騒な言葉に、あまねは眉根を寄せた。
 頼朝は頷いた。
「この都のどこかに、卑怯な手を使って命を奪おうとする奴がいるんだ」
 忌々しげにそう吐き捨てると、頼朝は眼下に広がる都の一点を睨め付けた。
「…………それが、夜、出かける理由ですか」
 と、あまねは思い当たることを口にした。
 頼朝は、しまった、と口元を歪めて言葉を飲んだ。
「それで? どちらに呪具があるんです?」
「――――何でそんなことをお前に言わなきゃなんねーんだよ」
「今日、目星付けたところに行くんでしょう? だって今日は新月の夜ですもんね」
 あまねの指摘に、頼朝はぐう、と唸った。
 新月の夜は、この世ならざる存在が活発になる刻。呪具の埋まっている場所など、見るものが見れば、一目瞭然だろう。――あまねは祓魔師ではなかったが、それくらいは父から伝え聞いていた。
 頼朝が口ごもる。
「私を連れていってください」
 役に立てる! と、あまねの胸は早鐘を打った。
 義平は頼朝の側にいてくれ、と言っていたけれど……やはり、何もしないでいるのは気が引けたのだ。
「正規の祓い方じゃないけど、この力なら――――」
「駄目だ」
「どうしてですか」
「危ないからだ」
 とりつく島もない応対に、あまねは半眼になって頼朝を見遣った。
「呪詛を見つけてどうするんです? まさか頼朝さんが祓うんですか」
「あ、明日の朝にでも、陰陽師に」
「明日になったら、移されちゃってるかもしれませんよ」
 至極当然の指摘に、頼朝は苛立たしげに唸った。
「……いちいち厭味ったらしい女だな。どう言おうと、連れて行かねーからな。足引っ張られるのは嫌なんだよ――――」
「私がいたら、バツンッと呪詛祓いは終わりますけど」
 あまねが、白々しく言い返す。
 最近分かってきたこと……頼朝が「足手まとい」とよく言うのは、あまねを守る対象として見ているからだ。
 あまねは、もっと、彼と対等な位置にいたかった。
 友達とはそういうものだと思うのだ。
 頼朝は口の端を引き攣らせて黙り込んだ。あまねを睨め付ける。
 やがて、おずおずと戻ってきた馬に鼻を寄せて労ってから、嘆息した。
「…………来るなと言ってもお前は来るんだろうな」
 青筋を浮かべて、前を向いた彼はふんと鼻を鳴らした。
「同伴を許可する。――せいぜい、面倒事を起こすなよ」
「はい!」と、あまねは片手を挙げて応えると、歩き始めた頼朝の隣に並んだ。段々と頼朝の扱いを心得てきたあまねである。
 そんな彼女を背に乗るよう促し、彼は悔し紛れに呟いた。
「……貧相な割に重てーんだよ」
 あまねが、彼の背をぎゅっと抓ったことは、言うまでもない。