刻の守護者

刻の守護者(2)

 青年は、土御門(つちみかど)直愛(なおちか)と名乗った。
 あまねの急いでいた理由を聞くと、彼は快く歩みを早めてくれて、あまねは道中、恐縮しっぱなしだった。
「着きました。あれが、うちです」
 あまねの家族が借りている家は、三階建てのメゾネットタイプで、長屋のように細長く並ぶ、集合住宅の一つだった。
 共同の倉庫に自転車を運ぶと、直愛は早く行くようあまねの背を押しやった。
「……何だか、すいません。お茶も出せず」
「お構いなく。名刺、ポストに入れておくから。自転車の弁償について、後で連絡頂戴ね」
「え!? いえ、それはっ――――」
 玄関の戸を引き明けながら、あまねは慌てて、直愛を引き留めようと声をあげた。
 と、その時だった。
「今すぐ結界を解け、クソオヤジ―――――――――!!」
 もわん、とした暖房の熱風が頬を撫でると、長屋全体を震わせる怒声が響き渡った。
「だ、だって、結界解いたら(あきら)くんが投げる物が僕に当たるだろう?」
 おどおどした声はあまねの父――木津(こづ)元三(もとみつ)のものだ。
「だから解けって言ってンだよ!!」
「当たったら、痛いじゃないか!」
「痛い目に遭わせてーんだよ!!」
「それなら解く訳にはいきません!」
「くああああ! いっぺん、ぶっ殺さねぇと気が済まねえええッ!!」
 あまねは、目の前に広がるしっちゃかめっちゃかな室内の様相に、大体を把握した。
 父が「帰れ」と言ったのは、弟に何かがあったからではなく、怒り狂う弟から「助けて欲しい」からだったようだ。
「……弟くん?」
 何事かとあまねの背後から、直愛が中を覗き込む。あまねは恥ずかしさに顔を真っ赤にして、項垂れた。
「………………えっと、その、あの……弟と、父、です」
「弟さん、元気みたいで良かったね」
 あまねは、身体を小さくして頷いた。
「…………すいません」
 長女の帰宅に気付かず、二人の壮絶なバトルは続く。
「あれはオレの……オレの受験料なんだぞ!?」
「受験料って、でも、公立の受験料は払ったじゃないか」
「私立用だ!!」
 晟が怒りに拳を震わせると、ガタリと、室内の調度品が軋んだ。
「私立? 私立になんて行かせるお金、うちにはないよ」
 のほほん、とした父の言い草に、プチンと何かが切れる音がした。
「ああああっ! 何度も! 何度も!! 説明したじゃねぇかッ!! 受験には滑り止めってのがあって……っ!!」
 言葉にならない怒りと共に、晟が頭を掻きむしる。
 と、彼の手近にあった物が、ガタガタと揺れ始めた。
 ――念力(サイコキネシス)。晟の能力である。
 最初に舞ったのは、畳んでいた洗濯物だった。
 続いて、本棚に並んでいた文庫や漫画が、元三に向かって特攻する。
 座椅子、テレビ、食器棚が開いて皿が――――
(――――テレビ!?)
「ちょ、晟!! 駄目!!」
 元三の背後で、先月買い換えたばかりの液晶テレビが、ローボードから浮き上がる。
 あまねは真っ青になって叫んだ。そのせいで、弟の制御を離れた意識が一瞬、あまねに向いた。
 ぶぅん、と勢いよく空を切り、ティッシュ箱が飛んでくる。
「――――――もーっ!」
 あまねは素早い身のこなしで、それを避けると、ローファーも脱がずに、弟に駆け寄った。
 ターゲットを見失ったティッシュ箱は、容赦なくきょとんとしていた直愛の顔面にヒットする。……「あっ」と声を上げて、蹲った彼に、気付く者はない。
「ああ、あまね! おかえり」
「姉ちゃん!?」
 助かった! と顔を綻ばせた父と、気まずそうに顔を強ばらせた弟が、同時にあまねを振り返る。
「……少し落ちついて。ね、晟」
 二人の間に割って入ったあまねの姿に、わくわくと揺れていた調度品たちが、白けたように黙り込む。
「えーっと。晟、何があったの?」
 ほっと胸を撫で下ろしてから、肩を怒らせ荒い呼吸を繰り返す弟に、あまねは問いかけた。
「使いやがったんだよ、このクソジジイ!!」
 鼻に皺を寄せて、弟が応えた。
「振り込むつもりで出しておいたら、これだよ!」
 晟は、乱暴に仏壇を平手で叩いた。
 十年前に亡くなった、母の遺影が困ったように傾く。
「え、えっと、パパ、何に使っちゃったの……?」
 今度は父に向き直り、あまねは問うた。
 すると、父はパッと顔を輝かせた。
「聞いてくれるかい? それはね……これだ!」
 そうして自信満々に胸を反らして、彼は右手を差し出した。
 そこには、地方のパーキングエリアのお土産コーナーにでもありそうな、やぼったいデザインのブレスレットが乗っかっていた。
 ガラスだろうか、透明な玉が円を描き、途中に挿入された大きいサイズのそれには、梵字が刻まれていた。
 元三は、ニッコリと微笑み、あまねの腕にそれを巻き付けると言った。
「どんな能力も抑えてくれる、不思議なブレスレットだよ。あまね、前に商店街のマチさんと話したいって言ってただろう?」
「オレの滑り止めは地縛霊に負けたのか!!」
 晟が絶叫する。あまねは、開いた口が塞がらない。
 商店街のマチとは、歳末バーゲンに財布を忘れ、取りに引き返したところ、トラックに跳ねられ亡くなった、陽気なおばさん地縛霊である。
 節約術に長けている彼女とあまねは、生前、母と娘のように仲良くしていた。
 死んだ後も、話せるなら話したいものの、あまねは、力のせいで近付くことすらできず、とても残念に思っていたのは事実である。が……
「あまね?」
 不思議そうにする父に、あまねは唇を引き結んだ。
 プレゼントを、家の生活費から捻出する父の考えが分からない。
 しかも犠牲になったのは、弟の大切な受験料である。
(でも、パパ、私のことを思って買ってくれたんだし……)
 が、犠牲になったのは弟の受験料であり、しかし、しかし、好意を真っ向から否定するわけにもいかず……あまねは、顎に手をやり、うん、と唸った。それから、慎重に言葉を選び、唇を開く。
「とりあえず…………大家さんに事情を話して、家賃の振り込みが遅くなるって伝えて、それを受験料に回して――――あ」
 解決案を口にしたあまねの面から、ザァッと音を立てて血の気が引いた。
「あの茶封筒に、今月の家賃も入って――――――」
「?」と、小首を傾げる父の頬を、晟がすかさず抓り上げる。
「……ああああ、痛い痛い! 晟っ、痛いよッ!!」
 あまねは、再び暴れ出した弟をそのままに、一人静かに考えた。
(どうしよう)
 ……考えた。
 が、不運にもアルバイトの給料日は二週間も先で、それを待っていては、振り込みに間に合わない。かつ、そのバイト料は家賃全額まかなえるような金額でもなかった。
(うう、困った)
 ぎゃんぎゃんと再び口論を始めた父と弟を前に、あまねは途方にくれる。
「あのー……」
 と、隣で控えめな声が上がったのはその時だった。
「もしかしたら、お役に立てるかもしれないんだけど」
 直愛だった。
 一斉に、三つの視線を受けた彼は、赤く腫れた鼻柱をさすりながら、遠慮がちにティッシュ箱を挙げると、肩を竦めた。
「あ。お邪魔してます」