あいが一つ足りない

 曽根大貴(そねたいき)は、DVDケースを開けて眉を吊り上げた。
 開店前に、借りていたDVDを返さねばならない――そう思い出して確認すれば、中身が空っぽだったのだ。
 彼は苛立たしげに一つ溜息を吐くと、隣室の兄の部屋に特攻した。
 おざなりにノックを数回。返事も待たずに、扉を押し開ける。
 ふわり、とエアコンの冷風が頬を撫でる。
「兄貴。観たら戻しておけって――――」
 盛大な音がして、扉前に積まれていたのだろう本の山が崩れた。
 埃が舞う
 。大貴はうんざりして、中央でまだ寝こけている兄・智哉(ともや)に、更に声を張り上げようとして――息を飲んだ。
「よっす、弟クン。兄貴は熟睡中だ」
 兄と同じ毛布にくるまり、仰向けに漫画文庫を読んでいた女が、肩越しに振り返った。上掛けがずり落ち、素肌が露わになる。
 下着姿のその女は、親しげに手を上げた。
 ――中島奈津(なかじまなつ)
 大貴たち兄弟の大学の先輩で、かつ、兄・智哉の友人以上恋人未満の女だ。
「…………あんた、また来てたのか」
 大貴は肺の中が空っぽになるほどの息を吐き出した。
 平静を装い、床に散らばる本やら新聞やらを踏まないよう、細心の注意を払って兄のパソコンデスクに向かう。
 文庫と、飲みかけの紙パックジュースを脇へ押しやり、出しっぱなしにされていたDVDを見つけ、ケースに入れる。
 ……極力、奈津の方は見ないようして。――――が。
「ねーねー」
 彼の思惑など何処吹く風。くるりと上掛けを身体に巻き付け、素肌を覆った奈津は、大貴の服の裾を引っ張った。
「ンだよ」と、不機嫌も露わに手を振り払われても、彼女は気にしない。
 ニンマリと口の端を持ち上げると、言った。
「やらない?」
 アーモンド型の目が、挑発的に誘う。
 その右手にはトランプと綿棒。大貴は眉間をほぐすよう指で触れ、ややあってから、呻いた。
「…………三〇分後ならな」
「やった!」
 奈津は両手を上げ、三日月の形に目を細めて破顔した。
 パッと向日葵が咲くような、明るい笑み……小さな唇から八重歯が覗く。
 家を出た大貴は、店への道すがら、そわそわした。情けなく、馬鹿らしく、不甲斐なく……それでも、心は喜びを控え目に訴える。
(何だって、俺は、あんな奴のこと……)
 唇を噛む。口中に広がる苦みに、大貴は顔を顰めた。

     * * *

 大貴の母は、長野を飛び出し上京した兄を、いつも心配していた。
 とにかく兄には生活能力がない。
 毎日食事は外食で済ませているに違いなく、部屋だって――喘息持ちにも関わらず、綺麗にはしていないだろう。
 だから大貴が兄に二年遅れて同じ大学に進学が決まった時、兄弟の同居は確定事項だった。
 母の予想はほぼ当たっていた。外れていたのは奈津の存在だけだった。
 大貴が大一、智哉が大三の時、彼女は大四だった。
 奈津の本心はさておき、兄は彼女を、とても仲の良い女友達だと紹介した。
 奈津は時折、兄弟の家を訪れ、掃除から料理から一通りこなし、散々、読書とゲームを楽しむと帰っていった。
 それは、兄が卒業して就職し、奈津が修士課程で学ぶ今も変わらない――


 駅前のレンタルショップから足早に帰宅すると、大貴は床に散らばっていた雑誌などをまとめ、ざっと部屋を見渡した。
 ――兄とは比べるべくもなく――部屋はとても綺麗に整頓されている。
 コンコン、と待ち構えていた控え目なノックの音がした。
 大貴は、無意味にシャツの皺を延ばしたり、ジャージの膝を叩いたりしてから、応えた。
「ドーゾ」
 しかし、一向に扉の開く気配はない。
「……どうぞ?」
 ややあってから、薄く扉が開き、奈津が顔だけ覗かせる。
 そして、小首を傾げて言った。
「……Tシャツ、借りて良い?」
「ズボンもだろ!」
 大貴は、叫ぶように嘆いて、部屋の奥から部屋着一式を用意し、扉の向こうに投げた。
 奈津が兄の部屋で、下着同然で歩き回るのには彼女なりの理由がある。
 身の丈に合わない高価な服を着ているから、家の中では着ないのだ。――皺になるのが嫌だと言って。
 兄のズボラさを知る大貴は、彼女に「兄から借りろ」と強くも言えない。(兄は、生乾きのシャツもズボンも、気にせず洋服箪笥に入れるような男だった。)
 奈津が座椅子に座ると、大貴もローテーブル越しに腰掛けた。
 差し出されたトランプを受け取り、手際よくシャッフルする。
 奈津は綿棒を十ずつ配ると――チップの代わりだ――ぺこりと頭を下げた。
「ではでは、宜しくお願いします」
「はいはい。宜しくお願いします」
 ブラックジャック。手持ちのカードの数字の合計を、二一に近づけるゲームで、それを一つでも超えたらゲームオーバー。
 黙々と大貴と奈津はカードを引き、裏返して勝負し、綿棒のやりとりをし、再び引き……を繰り返した。
 と、大貴の腹が盛大になったのは、その時だった。
 時計を見れば、一〇時半。
 確かに、朝食を取っていないと、腹の虫が主張を始める頃合いだった。
「…………お腹空いてるの?」
 奈津が小さく笑う。大貴はしぶしぶながら、頷いた。
「ねーさん。作ってくれたり、しねえ?」

     * * *

 カードを切る、二枚ずつ配る。
 大貴は、キャベツと肉が大量に乗っかった大皿を片手に、勝負に挑む。
(年下の俺が言うのもなんだけど……“良い子”なんだよなあ。料理もうまいし)
 カードを眺める振りをして、大貴は難しげな顔をする奈津を盗み見た。
 確かに、彼女は色々と常識っ外れで、女として頓着がなさすぎる部分もあった。
 が、顔もそれなりに整っているし、性格だって、優しくて律儀で真面目だ。なにより気遣いが人一倍できる。友人だって多い。面倒見も良い。
 事実、レポートやテスト、授業登録に関して、思想・宗教を専攻している奈津には(兄も同じ専攻だったが、もちろん手助けの「手」の字もなかった)、民俗(宗教と切ってもきれない関係がある)を専攻する大貴は、頭があがらないほど世話になったのだ。
(…………ホント、世界ってば不条理)
 そんな彼女は、兄が好きだと言う。
 大貴には納得できない。
 確かに、兄は優秀だった。
 稼ぎもそれなりにあるし、活字中毒なものだから、幅広い知識も持っている。
 しかし生活には無頓着だし、自分勝手だし、他人を気遣うことを知らない。
 欲張りで、人を能力でしか見ない――――金と女と身分を手にした「子供」だ。
(それが魅力だなんて、俺は認めねーぞ)
 もちろん奈津は稼ぎで寄ってきたわけではない。
 彼女は、智哉が野菜を煮る鍋で、顔やら髪の毛やらを洗っていたどん底貧乏の頃から、世話を焼いているのだ。
「おはよう」
 部屋の扉が唸って、智哉がノックもなしに入ってきた。
 寝癖もそのままに、彼は、ぼりぼり腹を掻きながら、ローテーブルについた。
「……って、何食べてんの」
「キャベツの段々重ね」
 カードを切りながら、大貴が応えれば、智哉はちょっと唇を尖らせて問うた。
「俺の分は?」
「あるわけねーだろ」
 と、大貴が皿から手を離した一瞬の隙を突き、智哉はキャベツと肉を箸で摘み上げると、大口に放る。
「ちょっ……」
 止める暇もない。大貴のキャベツと肉はさっさと半分以下にされてしまった。
 怒りに我を忘れて打ち震える弟など気にもかけず、兄は奈津に身を寄せた。
「なつ。首尾は?」
「ふっふっふ。コンビニのアイスクリーム、三つ買えるくらいには」
 綿棒を示して、奈津が誇らしげに鼻を鳴らす。
 その彼女の髪を智哉はわしゃわしゃとかき混ぜた。
「素晴しい。さすが俺の女だ」
「はいはい」
 素っ気なく言って、その手を振り払った奈津は、顔を隠すようにして、顔の前でカードを広げた。
 智哉がクスリと小さな笑いを零す。
 大貴はチッと舌打ちして、乱雑にカードを二枚配った。
「――っと。電話してくる」
 着信音が鳴って、兄が退室した。
 大貴は「ステイ」と、もうカードを引かない旨を告げた。
 が、奈津からは何の反応もない。
 大貴は苛立たしげに貧乏揺すりを始め……ちらり、と奈津を見て、気まずさに唇を噛んだ。奈津は、人形のように冷めた、無表情をしていた。
「…………で? 引くか?」
 先を促せば、はっと彼女は我に返った。
 いつものテンションで、テーブルを二度指先で叩く。
『もう一枚寄越せ』の合図だ。
「もち、アドよ。ほれほれ」
「アドって何だよ。ヒットだろ……」
 一枚、カードを渡す。
 彼女は三枚のカードを見遣り、やがて大仰に溜息を吐くと、カードをテーブルに放った。
「ドボンだわ」
 彼女の最初の手札二枚は、一〇と九。
 続いて引いたカードは、ハートのクイーン――――計二九。オーバーだ。
「…………一九で引くやつがあるかよ」
 呆れ返る大貴に、奈津は頬を膨らませ、そっぽを向いた。
「二一が出したかったんだもん」
「そういうゲームじゃねーよ」
 奈津は無言で、賭けていた綿棒を大貴に投げた。
 それからテーブルに放られたカードを纏め、もたもたと切り始める。
 ぴょん、と、幾度かカードが飛び出した。
 むきになった彼女は、カードの山を二つに分け、バラバラと弾き始めた――カードは意思でもあるかのように、四方八方に飛び散った。とんでもないリフル・シャッフルだった。
「………………なあ」
「んー?」
 奈津が、無言で床に広がったカードを拾い集める。
 大貴は、その微妙な沈黙に堪えきれず、何となしに、問を口にしていた。
「兄貴のどこがいいの?」
 奈津の手が、ピタリと止まった。
 大貴は、今すぐ自分の横面を張りたい気持ちになった。
 彼女の動揺の原因はさっきの電話であったと、察していたのに……大貴は、何か、言いつくろうとし、けれど、気の効いた言葉一つ思い浮かびもせず、ただ、ただ、舌をもたつかせた。
「……どこか、良いところがあるかね?」
 ややあってから、奈津は軽口を叩くように、問いで返してきた。
 その小馬鹿にしたような視線に、大貴は内心、安堵の溜息を零すと、必要以上に戯けて、肩を竦めた。
「ないよな」
 奈津は苦笑した。
 次いで、ふと、真面目な瞳で、じっと大貴を見つめた。
「…………弟クンはさ。好きな人がいて、その好きな理由を一つ一つ説明できる? その理由がなくなったら好きじゃなくなる?」
 問いに、大貴は……一瞬たじろぎ、それから、力なく首を振った。
 大貴はよくよく知っている。
 可愛い。優しい。料理がうまい――
 それらが原因で、奈津に惹かれているのではないと……ハッキリ自覚している。
 中島奈津――彼女だから、こんなに胸がどきどきするのだ。
「でっしょ。だから、智哉さんを好きな理由は答えられない。何でか分からないけど好き。……コイビトがいても。あたしは本命にはなり得ないって分かってても、ね。放っておけないの。……放っておきたくないの」
 大人びた……悟ったような、静かな声音だった。奈津はテーブルでカードの山をトントンと整えると、先ほどの鬱蒼とした様子を一蹴するよう、ニコリと微笑んだ。
「ん。準備完了。もっかい、お願いします!」
 カードが配られる。大貴はそれを受け取る。二枚のカードを顔の前で広げて、確認する……その合間から、奈津を見つめる。
(あんたは、「愛してる。それだけで良い」、とか言っちゃうんだろーか)
 それは、自分も……同じなのだ、と大貴は思う。
 どれだけ考えても、相手の心は知れない。
 だから、相手の気持ちなど関係ない。
 ただ、大切なのは、自分が想う心、のみ。
 真実は、今の自分の心の状態のみ。
 こうして、同じ場を、空気を共にできる一瞬に、こんなに心は満たされる。
 哀しいほどに、心は、幸せに、悲鳴をあげている……

     * * *

 智哉は奈津がきていても、いつもと変わらず読書をしていることが多かった。
 その隣で、奈津も一緒に漫画を読んでいたりする。
 大貴は、時々、そんな彼女と話すために兄の部屋に遊びに行った。
 奈津は自分の知らないことには、貪欲なまでの好奇心を示したから、大貴は熱心にいろんな話をした。彼女は聞き上手でもあった。
「そのバンドが好きなら、こっちもいけんじゃね?」
 動画サイトで、大貴の好きなヘビーメタルの曲を流す。
 ベッドの上で読書をしていた兄が苛立たしげに弟を見たが、大貴は無視した。
 そんな攻防には気付かず、奈津はきゃらきゃら笑う。
 その頭に、大貴はヘッドホンをスッポリ被せてやる。
「うっわ。凄いルックスだね」
「――――――オイ」
 智哉が不機嫌丸出しで口を開く。奈津には聞こえていない。
「ぎゃ! 凄い音。ムリムリ。耳が壊れる」
「初めはそう思うんだよ。だけど、聞いてる内に――――」
「オイ!!」
 ちょうど奈津がヘッドホンを取り外した時、智哉が声を荒げた。
 奈津が目を丸める。
 大貴はちぇっ、と唇を尖らせた。
「バカ大貴。いつまで俺ん部屋にいるんだよ」
「……明日、休日だろ。別に良いじゃん」
「少しは気を遣え、って言ってんの」
 言って、兄貴は奈津の肩を抱き寄せた。
「ちょ……ッ! こら!」
 慌てて奈津が智哉を引き離す。
 顔を真っ赤にして、唇を無意味に開閉させて、やがて諦めたように項垂れて……
 大貴は、口に出かかった文句を全て飲み込むと、肩を竦ませた。
「…………へーへー。お邪魔しました」
 部屋を出る。「ごめんね」と奈津があやまる声が追ってきた。
 やめて欲しい、と大貴は思った。
 いくら自業自得だからといっても……これ以上、惨めにしないでくれ、と小さく毒づく。
 兄と対面の自室に逃げ込む前、大貴は台所に寄った。
 冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップ一杯を咽に流し込む。
 冷えていく身体と裏腹に、ささくれ立った心は熱を帯びた。
 窓外には、東京の、退屈な私鉄沿線の夜景が広がり、網戸越しに車や犬の鳴き声やらの喧噪が飛び込んでくる。それに、兄の部屋から漏れ聞こえる、ラジオの音が混ざる……
 大貴は顔を覆った。網膜を幻が過ぎる。
 奈津の微笑む小さな唇に、覗く八重歯に、好奇心に煌めく猫目に、折れてしまいそうなくらい細い首に……兄が触れる。兄が映る。兄が口付ける。
 大貴は奥歯を噛みしめた。ゴクリと音を鳴らして唾液を飲み下す。
 やがて、浅く呼吸を繰り返すと、軽く頭を振った。
 軽くゲームでもして、寝よう――そう結論付けて、大貴は自室に向かった。と、その時だった。
 ガチャ。
 玄関の扉が開く音に、大貴の眉は跳ね上がった。
 思い当たることはただ一つ。怒りのボルテージが最高まで達する。
「くそバカ兄貴、また鍵閉め忘れ――――」
 智哉の鍵のかけ忘れで、隣の酔っ払った中年男性が誤って、大貴たちの家に帰ってくるのは一度や二度ではなかった。
 大貴は、鬱陶しげに頭をかきむしって、玄関に向かった。
 ポケットの携帯電話を確認する。
 根気よく説得する余裕はない。
 一言言っても通じなければ、即座に警察を呼ぶつもりだった。
 しかし、玄関でパンプスを脱ぐ人物に、大貴は声を飲んだ。
 彼女は、人差し指を唇に当てて、悪戯っ子のように片目を瞑った。
 スーツの上着を脱いで腕にかけ、ビジネスバックを玄関脇に置き、それから、慣れた様子で、智哉の部屋に――
「いや、ちょ、今は――――」
 余りの混乱で動けなかった大貴は、慌てて金縛りを打ち破ると、その背を追った。
 やっと出たのは意味のない言葉の羅列。
 その間に、彼女はさっさと智哉の部屋のドアノブを回していた。
「――――なに、してんの」
 扉が開かれる。秘密が曝かれる。彼女は――――智哉の恋人は、唇を戦慄かせた。
「……その女、誰よ」
 大貴はくるりと踵を返すと、今度こそ、自室に駆け込んだ。
「い、いや、彼女は……あれだよ、大貴の恋人で――――」
 扉を閉める直前に、兄のひっくり返った声が耳に飛び込んでくる。
「なおさら悪いわぁ――――――ッ!!」
 扉を閉める。
 耳に手をやりふさいだものの、甲高いその怒声は、それでも大貴の鼓膜を貫いた。

     * * *

 コンコン。控え目に、ノックが二回。
「……はい」
 応じれば、扉が薄く開く。奈津が困ったような顔を覗かせる。
「Tシャツ借りて良い?」
「…………ズボンもだろ」
「ありがと」
 家着一式を放り、部屋に招き入れる。
 奈津は着替えると、座椅子に腰掛け、ぼんやりしていた。
「あんた、帰んねぇの」
「だって、バックも何もかんも智哉さんの部屋なんだもん」
 空気を読んで、即座に出てきたのか、追い出されたのかは知れないが、帰りたくても帰れないと言う状況だけ、大貴は把握した。
 暫く甲高い怒声やら罵声やらが響いていた兄の部屋はすっかり静かになった。
 その静寂が伝染して、気まずい沈黙が大貴と奈津の間にも落ちた。
 大貴は、言うべきことも見つからず、所在なげに近くにあった雑誌を手にした。
 パラパラ捲るも、文字はさっぱり頭に入ってこなかった。
「あたしさ……とんでもない事してたんだね」
 と、ぽつん、と奈津は言った。
「……どうした? 急に」
 体育座りをした彼女は、膝小僧に額を押しつけると、誰にともなく呻いた。
「好きってだけで十分、って思ってたのに」
 彼女は顔を上げ、訴えかけるように大貴を見ると、大変な告白をするように唇を開いた。
「…………彼女、凄い、傷ついた顔してたの」
「はあ!? 今更!?」
 大貴の唇から素っ頓狂な声が溢れる。
 奈津は至極真面目な様子で頷いた。
「彼女の存在は知ってたけど、いまいち、あたしと同じ『人』って理解できてなかったのよ」
 大貴は呆気に取られて奈津を見た。
「彼女、かあ」
 奈津は顎に手をやり、深く何事か考えていたが、やがて、フッと溜息をついた。
「…………やっぱ、私、強がってたんだなあ」
 彼女は、両手を前につきだし、うん、と伸びをすると、誰にともなく続けた。
「今を大切にしたい。今を楽しみたい。昨日も明日も、見ずに。今、目の前にいる人を、愛したい……そう、ずっと、言い聞かせてきたんだ」
 大貴は静かにその独白を聞いていた。
「でもさ。やっぱり、昨日も明日も、ずっと独占したい。あの人の心の中にいるのは、私でありたい。ずっとずっと……私一人きりでありたい」
 奈津は照れ笑いを浮かべて、大貴を見た。その顔は、今にも泣出しそうだった。
「ずっと、愛したいって思ってた。でも…………違ったんだ」
「……『愛したい』んじゃない?」
 大貴の静かな問いに、奈津はしかと頷いた。
「……ん。愛し“合い”たいんだ」
 ローテーブルに放られたままのトランプを、奈津は見下ろすと呟いた。
「あと一つ……“あい”が足りないねえ」
 ……二一に近づけようと、カードを引く。
 理想に近づけようと、カードを引く。
 越えたら壊れ、足りなすぎても満足できない、自分との駆け引き。
 あと一つ、“あい”が足りない。
 でも、それは、カードの山に――相手の中に、あるかどうかすら知れない、カード。
(だから、俺たちは……足りない“あい”を、思い込みと、束の間の幸福で代替する)
 大貴は奈津を一瞥して、視線を逸らした。
 愛している。それだけで、十分なんだと思う。
 ――――そんなのは、嘘だ。
 愛している。それだけ――同じだけは無理だとしても、やはり同じだけ――愛して欲しい。
 我儘で、強欲な祈りは、カードを引き続けようとする。
 それを自制して、忘れて、けれど、それはふとした時に、破れてしまう。
 大貴は思う。
 奈津が瞑目する。
 想いは重なり、不協和音を奏でる。
 部屋に、胸をじくじくと痛めつける沈黙が流れる。
 と、玄関の方で音がした。
 それから大貴の部屋の扉が開いた。入ってきたのは、智哉だった。
「…………振られた」
 項垂れた彼は、ぽつり、と言った。
 それから、身の振りを決めかねて戸惑った様子の奈津に、彼は縋り付いた。
「………………なつぅ」
「あんたは――――ッ」
 カッとして声を荒げた大貴を目で制して、奈津は優しく智哉の肩に手を添えた。
 それから彼の腕を引いて立ち上がらせると、クルリと扉の方へと向け、言った。
「追っかけて土下座して謝ってこーい」
「な、奈津」
 トンッと背を押されて、智哉があたふたと奈津を振り返る。
 その彼に、彼女は小首を傾げた。
「…………“彼女の変わりはいない”んでしょ?」
 それは、トドメの一撃だった。
 ――――奈津にとっての。大貴のとっての。それは、最後の……“確認”だった。
 智哉は、束の間、逡巡したものの、部屋を出て行った。
 奈津は閉じられた扉を――出て行った人物をいつまでも見つめていた。……歯を、食いしばって。
「…………バーカ」
 その背に、大貴は掠れた声で揶揄を飛ばす。
「否定しない」
 苦笑が応える。大貴は問いを重ねた。
「まだ、兄貴のこと好き?」
「当然」
 奈津は応える。
「……また来る?」
「呼ばれたら」
「彼女がいても?」
 暫し、間があって、奈津は大貴を振り返った。
「……今更?」
「クズめ」
「否定しない」
 言って、彼女は、口の端を持ち上げて、ニヤリと笑んだ。
「……じゃ。お邪魔さま」
 それから彼女は、智哉の部屋に行って着替えを済ませ、荷物をまとめると玄関に向かった。
「どうなるか気にならないの」
「あたしは、ココにいるべきじゃないでしょ」
 送りに出た大貴に、奈津は肩を竦めてみせた。
 それから祈るように、決意めいた言葉を付け加えた。
「呼ばれたら……また来るわよ」
「呼ぶよ」
 被せるように、大貴は言った。
 奈津が訝しげにする。
 彼は言葉を重ねた。
「――――今度は、俺が」
「…………バーカ」
「否定しない」
 大貴は首を振った。――否定はできなかった。
「…………奈津」
 大貴は名前を呼んで、彼女の細腕を掴んだ。
 奈津の顔が強ばる。大貴は、その腕を力任せに引き寄せて――――
「ごめん」ふいに、鼓膜を震わせた声に、大貴は硬直した。
 恐る恐る、彼は奈津を見下ろした。
 その腕を、彼女はそっと外すと、いつもと変わらない様子で手を振った。
「じゃね。弟クン」
 床から鞄を拾い上げて、ドアノブを回して、彼女は出て行った。
 パタン、と、空しく扉が閉まる。
(……よりにもよって、『ごめん』かよ)
 大貴は、壁に寄り掛かると、片手で顔を覆った。
 食いしばった歯の間から、呻きが漏れる。
「何でだよ……」
 何故、愛している人に愛されると言う単純なことが、できないのだろう。
 大切な人の、一番になりたい。恋して、愛して、愛されて。
 想う相手と恋人同士になりたい。
 そうして幸せに日々を過ごす人たちが大勢いると言うのに。
 物語では、多くの恋する者たちが、想いを通い合わせていると言うのに。
(何で……どうして、俺ばかり――俺たちばかり、できない?)
 大貴は、奈津の細腕を掴んだ右腕を見下ろした。
 熱かった。
 その熱は、毛細血管を流れて、目頭にまで迫ってきた。
 彼女を誰よりも幸せにしたい、と大貴は心から思う。
 幸せにする自信がある。大切にする。蔑ろになんてしない。
 彼女に相応しい男であろうと思う。足りないならば、今以上に努力する。
 二人で笑顔でいたい。一緒に。
 ずっと、一緒に、たわいもないことで笑い合って……
「……あんたが、好きだ。好きなんだよ」
 けれど、彼女が求めるのは、自分ではない―――大貴は、ずるずると壁に寄り掛かったまま、座り込んだ。
 窓から差し込む月明かりが、冷たいほどに、白かった。
 台所の流し台から、ポタン、ポタンと、蛇口から落ちる水滴音がした。
「……たった一つ、加えるだけなのに、な」
 火を灯すようにはいかない。カードを引くように、加えるわけにはいかない。
 あい。
 釣り合うためには、あと一つ『あい』がたりない。
 理想には、『あい』が一つだけ足りない。
 それは、単純で、簡単で、けれど、星のように、月のように、手に届くようで決して触れられない。それは遠く、果てしなく、幻のような……

     * * *

 奈津は、失恋ソングを口ずさみながら、夜を見上げて歩いた。
 掠れた苦笑を零す。目元を手の甲で拭う。
 帰路を急ぐ。
 知れず、人さし指で自身の肩を二度叩いた。

 ――コツン、コツン。

 ……大貴は寝転がった床を、二つノックした。


 願いは重なり、夜に反響した。
 それは、形なき星になり、音もなく燃え尽き……消えてしまった。

あいが一つ足りない (了)

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