彼女と彼女と彼女の恋

 新校舎が建てられた後も何故か残った旧校舎の奥。
 そこにある今では使われていない生物室が、高校での私の居場所だ。
 廊下側の扉と校庭に面した窓は、全て遮光カーテンが覆い、中は真っ暗。机や椅子、教室の至る所に積み重ねられた虫かごのシルエットがぼんやりと視界に浮かぶ。
 耳に聞こえてくる、ムシたちの声。私は目を閉じて、その歌声に耳を澄ませる。
こうしていると、まるで私自身が、捕らわれた一匹のムシのように思えてくる。
支配され、与えられるがまま生を貪る。そして気づけば死んでいる、ちっぽけな存在──。
『随分と謙虚なことだね。食事をしてきたばかりだっていうのに』
「謙虚? 私は本当につまらない人間だよ。何から何まで」
 私は投げやりにそうぼやくと、鞄を持って席を立った。
『君のつまらないは範囲が広すぎるよ』
 その時、不意に扉が開かれた。
 カーテンの隙間から差し込む初夏の強い日差しを受けながら、明るい茶色の髪が飛び込んでくる。
「風花! やっぱりココに居た!……うわ、蒸し暑っ」
 呆れたような声をあげたのは、友人の新堂ワコちゃんだった。
 すかさず、私は部屋の電気のスイッチに手を伸ばした彼女に、声を上げた。
「ダメ!」
 ワコちゃんの手がびくりと止まる。
「電気付けると、ムシたちが驚くから」
 私の言葉に、ワコちゃんは気を悪くした様子もなく軽く頭を下げた。
「あ、そうだったね。ごめん。じゃ、私、外で待ってるから、一緒に帰ろ」
「え……どうして?」
 きょとんとすれば、彼女は腰を手をやり、大仰にため息を吐く。
「どうしてって事はないでしょ。ほら、最近、物騒な事件起きてるじゃん。あんた、放っておくと一人で帰りそうなんだもん」
 物騒な事件。
 私は、最近毎日のように見る新聞の見出しを思い出す。
「あの連続猟奇殺人事件……?」
 被害者は全員、獣のようなものに食い散らかされた無惨な遺体で見つかるという。
「そ。今朝、五人目が見つかったって。校内放送聞いてないね? 集団下校しろってさ」
 外からヘリコプターの音が響いてくると思っていたら、そういう事だったのか。
「それに、話したかった事もあるし」
 ワコちゃんが口早に付け足す。
 私はすぐさま頷いた。
 ワコちゃんが言いづらそうにするなんて珍しい。照れたように片手を上げて、廊下に出てくれたワコちゃんを追い、私も教室から出る。
 外は目を焼くほどの明るさだった。白くなった視界に、一瞬、目眩を感じた。
「オッス」と、右隣から予想外の耳に心地よく響くテノールの声がした。
 見れば、同じクラスの有田義一くんが、微笑みを浮かべて、私に片手を上げている。
 私は義一くんとワコちゃんを交互に見た。二人の、なんとなくぎこちない雰囲気。
「えと。ワコちゃん、付き合い始めたの?」
 ワコちゃんは頬を真っ赤に染める。
「うん。一番初めに、親友のあんたに言おうって決めてたんだ」
「そっか。おめでとう」
「ありがとう」と言った彼女は可愛らしく八重歯を見せた。
「っつーわけで、今日は三人で帰ろ。駅前のマックで軽くお昼食べてさ」
 ワコちゃんが先陣を切って歩き始める。
 それを追うようにして義一くんの隣に並んだ私は彼を盗み見た。
 その精悍な横顔はとっても幸せそうだった。
「ありがとう。でも、私は一人で帰るよ」
 私の言葉に、ワコちゃんがセーラー服を翻して振り返る。
「何でよ?」
 それから彼女は肩を竦めて苦笑すると、義一くんの耳元に唇を寄せた。
 真っ赤になって飛び退ろうとする彼のネクタイを掴み、ワコちゃんが何か囁く。――あ。義一くん、シュンとした。
 彼は見るからにしょげた感じで、だけど無理に笑って、私に言った。
「風花。時々は、ワコ貸せよー」
 彼は颯爽と手を振って去って行く。
「さ。行こ」と言って、ワコちゃんが私の手を引いた。
「義一くん、いいの? 残念そうだよ」
「明日は義一と帰るよ。……まったく、あんたは気にしいなんだから」
 彼女はニッと口の端を持ち上げた。
 学校を出ると、凄惨な事件なんて忘れるほど、クリアな青空が広がっていた。
 私とワコちゃんは手を繋いで歩いた。
 俯いた私が少しだけ手に力を込めると、ワコちゃんはきつく握り返してくれた。
 もう、こんな風に女の子繋ぎして歩けないのかな、なんて寂しく思った私の不安を、ワコちゃんはすぐに打ち消してくれた。
 二人で顔を見合わせて、意味も無く笑った。ワコちゃんは前にも増して可愛い。
「爪。気合い入ってるね」
 言って、私は握った手を持ち上げた。
 ワコちゃんの髪もお化粧も、今日はいつもより気合いが入っているけれど、とりわけ爪が凄い。
 ラメ入りのピンク地のフレンチネイル。
 爪先との境目に、パールレースをくっつけて、ホワイトのハートと点線のものが、二つから三つ並べてある柄だった。一目で力作だと分かる。ワコちゃんは私の指摘が嬉しかったようで、心なし胸を張って口早に言った。
「一本一時間レベルの傑作だよ」
 それから私の爪を見た。
 ワコちゃんが先週辺りに塗ってくれた私の爪は、ピンクのグラデーションに、白い星とパールがランダムに散らしてある。でも、日数が経ったせいで、ちょっと形が崩れていた。
「あんたのは、ちょっと剥げてきちゃったね。またやってあげる」
 ワコちゃんは私を気にしいと言ったけれど、自分が幸せ絶頂の中、こうして私を気にかけてくれる彼女の方が絶対に気にしいだと思う。くすぐったい気持ちになる。
「ありがとう」と言って、私はきゅっと彼女の手を強く握り俯いた。
「何?」
 ワコちゃんの心配げな声が降る。
 私はすかさず、ニッと笑って顔を上げた。
「気が早いなーって」
 繋いだ右手――ワコちゃんの左手薬指で輝く指輪を、爪でつついてやる。
 私のひやかしに、ワコちゃんは顔から火を噴くかってくらいに真っ赤になった。
「ちが、これは、何ていうか、昨日、ほら、告った後、ちょっと二人でブラブラしてたらたまたま。ノリっつーか義一が」
 怒濤の言い訳の後、ワコちゃんは唇を尖らせ、躊躇いがちに私を見た。
 それからボソボソ聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「…………前から、あたしンこと好きだったんだって。向こうもすんごい嬉しそうにしてくれてて。で――」
「知ってる」
「へ? あんた知って? 義一が、私のこと」
 要領を得ない裏返った声に、私は何度も頷いた。
「ワコちゃんのこと大好きなのなんて、バレバレだった」
「マ、マジ!? そういう嘘いらないよ?」
 義一くんはクラスでとても目立つ好青年だ。
 一般女子評価は、容姿端麗、明朗闊達、温厚篤実。
 鏡に映したように男子の評価はワコちゃんに返るわけで、要するに二人はお似合いのカップルだった。
「そっか。そっかあ……」
 幸せそうなワコちゃんの横顔に、私も自然と頬が緩む。
 と、「うわ」と声を上げて、ワコちゃんが急に足を止めた。
 目線を追うと、大通りの横断歩道近くに、猫がくたりと身を投げ出していた。
 ワコちゃんは躊躇なく死骸に駆け寄った。
 私はそれを目だけで追って……ぎくりとした。
 その遺骸の奥で、ぽっかりと口を開ける暗い穴が余りに不気味で……それは普通に道路に添う国道沿いのトンネルだったのだけれど、私にはそれが死んだ猫のために穿たれた、あの世への入り口のように見えた。
 明るい青空に、黒い染みのような半円は、何故だか無性に不安をかき立てる。
「可哀想。跳ねられちゃったんだ」
 物怖じせずにワコちゃんが猫を抱き上げた。私は脳裏を過ぎった不安を振り払うように、彼女の隣へと駆け寄った。
「どうするの?」
 覗き込み、問うた私に、ワコちゃんはさも当然と応える。
「埋めるんだよ。可哀想じゃん」
 ピチャリと彼女の手から赤い滴が落ち、コンクリートに染みを作った。私は目を細めた。
「手、汚れちゃうよ」
 痛ましげに猫を見下ろしていたワコちゃんは、私の言葉に肩を竦めた。
「洗えば済む話」

     * * *

 テレビでは、相変わらず猟奇殺人事件の特番が流れていた。
 連日連夜、警察は無能だと叩かれ、ニュース番組では被害者家族による涙の会見が繰り返される。でも、事件は未だ解決しそうにもない。
 午前授業の日が一週間続いた。
 部活は当然中止となり、私は学校内での居場所を完全に失っていた。
「ね。一緒に帰ろ」
 一人で帰ろうとしていた私は、ワコちゃんに呼び止められた。
「 義一君は?」と、訊ねれば、ワコちゃんはちょっと寂しそうな顔で、肩を竦めた。
「今日、学校に来てないんだ」
「風邪?」
「わかんない。連絡つかないんだ」
 私は「そっか」とだけ言った。
 なんとなく、それ以上、尋ねてはいけないような気がした。
 私は、彼女をこんな風に不安にさせる義一くんを恨めしく思った。
 でも、そんな気も数日でなくなった。学区内で被害者が出たという話を聞いたからだ。
 余りにも死体の損傷が酷かったため、身元の確認が遅れているらしい。
 同時に、義一くんが行方不明だってことも、知った。
 ホームルームを大分過ぎて、ワコちゃんが登校して来た。
 彼女は席に着いて早々、机に肘をついて両手で顔を覆った。
 私は事の重大さにどう話かけたら良いのか分からなくなった。
 大丈夫だよ、無事帰ってくるよ、気を強く持って。
 そんな根拠のない希望は空しくなるだけだ。
 ワコちゃんの席周りの女生徒達が心配げに声をかけていた。
 その無遠慮さに心底腹が立った。
 でも、何もできない私より、彼女達の方がマシなのかもしれないとも思う。
 一緒に帰ろうとしても、ワコちゃんは気がついたら教室から消えていた。
 次の日も、そのまた次の日も、私は馬鹿みたいに何もできず、ワコちゃんを遠くから見ていることしかできなかった。
「私に、何ができるのかな」
 暗い旧生物室で、私は自問自答した。
 ワコちゃんは日に日に憔悴していった。彼女の様子に胸がつまる。
『簡単な話さ。食べてしまえばいい』
「それは……できないよ」
 私は唇を引き結んで首を振った。
『まさか、後悔してるの?』
 知れず、私は爪を噛んでいた。
「私は、ワコちゃんの友達なんだよ。だから、守らなきゃ。ううん。守りたいんだよ」
 翌日の二限目。
 ノートにぼんやり黒板の数式を映している時だった。
 斜め前で、何か言いたそうにワコちゃんが私を振り返った。
 その時、スカートのポケットの中で携帯が震えた。ロックを解くと、ラインが起動する。メッセージはワコちゃんからだった。
『今日、少し話せる?』
『もちろん』
 断る理由なんてない。
 放課後、私の席に来たワコちゃんは俯いたまま無言だった。
 彼女の状況を考えるに、生徒もまばらな教室では話辛い内容だろう。
「ムシに餌あげてもいいかな……」
 私たちは旧生物準備室に向かった。
 いつもは私の前を歩くワコちゃんは、今日は後ろをついてくる。
「ちょっと待ってて」
「ここでいい」
 さっさと餌やりを終えようと教室の中に入った私の後に、ワコちゃんも入ってきた。
「でも、電気付けられないから」
「暗いまんまでいいよ」
 私は頷いて、戸棚から餌を取ると、ケースの中にそれを入れ始めた。
「義一がどこにいるか知らない?」
 ワコちゃんの問いに、私は顔を上げた。
「最近、連絡がつかないんだ。今までこんなこと一度もなかったし、心配で心配で」
 彼女の顔からは感情が消え失せていた。
 頬はこけ、目の下には濃い隈が見える。
「ワコちゃん。暫く学校休んだ方がいいよ。このままじゃ、ワコちゃんが壊れちゃう」
 そっと手を取って言えば、彼女はぼんやりと私を見て問うた。
「どうして、そんなに平気な顔してられるの」
 ワコちゃんが思いも寄らぬ強い力で私の手を掴んでくる。
「義一、帰ってこないんだよ」
「……うん」
 私には頷くことしかできない。
「うん、って何?」
 ワコちゃんが私の両肩に手をかける。肩に指先が食い込む。私は痛みに眉を寄せた。
 束の間の沈黙の後、ワコちゃんは唸った。
「あんたさ、何か知ってるんだよね。だって、おかしいじゃん。義一がいないんだよ。あんたの大好きな義一が!」
 思わぬ言葉に、私はぎょっとした。
「あたし、知ってるんだよ。あんたが義一のこと好きなの。義一のこと、あんたはずっと見てた。他人に興味なんてないくせに、義一のことだけは別だった。いつも気にしてた」
 私は息を詰まらせる。
 いつだって、私は彼を見てた。
「それは……」
 向けられるワコちゃんの強い視線を受け止めきれずに、私は俯く。
「好きな人がいなくなって、いつも通りって変だよ。何か知ってんでしょ?」
 覗きこまれる目を見返せない。肩口に食い込む指先が痛い。
「ねえ」
「知らない」
 それだけ言うのが精一杯だった。
「嘘だ」
 ワコちゃんの唇から、小さいけれど重たい否定の言葉が漏れ出た。
「嘘だよ!!」
 絶叫に近い断罪の声と共に、私は突き飛ばされた。
 机に腰をぶつけ、呻き声が漏れる。
「確かに、あんたに相談しないで告ったのは悪かったと思ってるよ。でもさ、あたしだって義一のこと好きだったの。それが、こんな――こんなのって」
胸ぐらを掴まれ、激しく揺さぶられる。
「おかしいよ。あんたも義一の事好きだったじゃん。なのに、心配しない。あんたは義一がどこにいるか知ってるんだ」
「し、知らない」
「どこにいるのか早く教えろよ!」
 頬が鳴った。
 ワコちゃんに叩かれたのだと、数秒経ってから気づいて、私は愕然とした。
「私、本当に知らないよ」
 また叩かれる。二度、三度、ついには拳で。叩かれる度に、きらきらとした思い出が無残に壊れていくような気がした。私は「知らない」を繰り返すことしかできない。
「……そうやって隠すんなら、もういい」
 ワコちゃんはゆらりと立ち上がると、パイプ椅子を掴んだ。
「言うまで、あんたの大事なモノ壊すから」
 そう言って、虫かごに思い切りパイプ椅子を叩き付けた。
 呆気ないほどに軽い音を立ててプラスチックが砕け散る。
 続いて、彼女は隣の虫かごを破壊する。
「やめて!」
 私は彼女にすがりついた。振り回されたパイプ椅子がこめかみに当たり、血が流れた。
「早く言えよ」
 髪を掴まれ上向かせられる。
「知らないの。本当に」
 訴えに、ワコちゃんは顔をくしゃくしゃに歪めると、私を押しやった。
「アタシ、義一を捜しに行かなきゃ」
「ま、待って。ワコちゃん、私も一緒に」
 ワコちゃんは振り返りもせず、旧生物室から出ていった。
 私はペタンと床に座り込んだ。膝から下の感覚が抜け落ちてしまったように力が入らない。
『だから言ったじゃないか。早く食べてしまえって』
「うるさいッ」
 両手を握りしめ、私は絶叫した。
……ムシたちの声はもう聞こえない。私はたまらなく孤独だった。

     * * *

 翌日、ワコちゃんは学校にこなかった。
『ねえ。今日、どうしたの?』
 メッセージの横に並ぶ「未読」の文字。
 もっときちんと支えてあげられたら。もっと良い言葉があったはず。
 脳内を狂おしい後悔が去来する。
 メッセージを送らずにはいられないのは、昨日、あんな風に別れてしまったからだ。――違う。私は胸を覆う言い知れぬ不安を、無視できなくなっていた。
 家にまで行ってみようか?
 神経を逆なでするだけかもしれない。
 これ以上、彼女と距離が離れてしまうなんて嫌だ。でも。
 悶々とホームルームを過ごしていた私を、担任が手招きした。
 連れだって廊下に出ると、先生は声を潜めて問うた。
「ワコさん、昨日からお家に帰ってないそうなのよ。貴女、何か知ってる?」
「い、いえ」
 その後も担任が何か言っていたけれど、頭の中には何も入ってこなかった。
 ワコちゃんが、いなくなった。
 私は一限目が始まる前に、学校を飛び出した。
 ワコちゃんの家に向かうと、数人の警察の姿があった。
 玄関前では蒼白な面もちの両親が携帯を片手に、行ったり来たりしていた。
 私は踵を返すと、思い当たる場所を、手当たり次第に駆け巡った。
 おそろいのストラップを買った小物屋さん。彼女の行きつけの美容室。バーゲン中のショッピングモールも覗いた。
 でも、ワコちゃんはどこにもいない。
 街灯が点り始める。
 藍色がのろのろと空に広がる。
 初夏の夜風はまだ冷たく、汗に濡れた制服がひんやりと肌に張り付いた。
 腕時計を見下ろせば、午後八時を回っていた。学校を出て十時間以上が経っている。
 と、スカートのポケットに入れた携帯が震えた。
 私は表示された名前を見るなり、慌てて通話のボタンを押した。
「風花」と、疲れきったワコちゃんの声が聞こえた。私は携帯を耳に押しつけた。
「ワコちゃん? 今どこ!?」
「風花。……昨日、ごめん。本当に」
「いいよ。大丈夫。私は大丈夫だから。こっちこそ支えられなくて、ごめんね」
 ワコちゃんが謝る必要なんて全然ない。
「ワコちゃん、今、どこにいるの? すぐに迎えに行くから。一緒に探そう」
「ごめんね。ごめん……ありがとね、風花」
 ワコちゃんの背後で、車の反響音と独特の風の音が聞こえた。
 ピンときた。私はワコちゃんが居場所を教えてくれるよりも早く、死んだ猫を拾ったトンネルに向かって駆け出した。
『風花。私さ──え?』
 唐突に、くぐもった声を最後に、ワコちゃんの言葉が中途でかき消えた。
 ツー、ツーと、不通音が聞こえてくる。かけ直す。
『電波の届かない場所にあるか……』
 圏外トーキーが流れる。
 背中に嫌な汗が流れた。
 何度かけ直しても繋がらない。
 私は携帯を握りしめ、走る速度を更に早めた。
『芳しい香りがするね』
 辿りついたトンネルに踏み入ると、生臭い匂いが鼻をついた。
 明り一つない暗闇に反響する、肉を叩き潰すような音、なにか硬い物を破砕するような音。
 私が進み続けると、音が止んだ。
 先方で、此方を伺う気配がする。やがて声が問うた。
「だ、誰だ……?」
 怯えきった、その声には聞き覚えがあった。向こうもすぐに私に気づいたらしい。
「風花?」
 それは行方が分からなくなっていた義一君だった。
 彼は束の間の沈黙の後、先ほどとは打って変わった貫く声を、飛ばした。
「今すぐ、ここから離れろっ!!」
 私は目を見開く。
「例のアレだよ。ここはヤバい。今――」
「あなた……何を食べてるの」
「は? お、お前、何言って……」
「全部、見えてるよ。私には」
 暗闇など、私には関係なかった。
 だから、彼が私を追い払おうとした小芝居も、無意味だ。
「誰を食べてんのよ!」
「な、何で、お前――ッ」
 彼の悲鳴を無視して、私は握っていた携帯に明かりを灯すと、自分に向けた。
 瞬間、全身が泡だつ。
「起きて。喰べていいよ」
『一日ぶりの食事だね』
 私は唇を引き結んだ。
 けれど、呻き声は溢れ出た。
 自身を両手で抱きしめ耐える。全身に走る嫌悪感。背中が蠢く。
 内部から、私の背は引き裂かれた。
 太股の後ろを生暖かな液体が伝う。私の白い靴下はすぐに真っ赤になった。
 嫌な音を立てて現れたソレは、身体の隅々まで伸ばそうと血に濡れた羽を震わせた。
「な、な、な……!?」
 義一くんが目を見開いて、私を――正確には、私の背後を見る。
「ワコちゃんを返せ」
 声に応え、それは彼に襲いかかった。
「おぐぅっ」
 くぐもった声を上げて、義一くんがコンクリートの床の上を転がった。
「な、なんなんだよ、これ……痛ぇ。痛ぇよ! 離してくれよ!!」
『離すことは出来ないけれど、説明ならしてあげるよ』
 言ったのは、彼を襲った紫がかった朱色の、大きな大きな蛾だった。
『僕たち蟲は、人間を捕食するいわば化物だ。僕らは効率的に食事をするために、人間の身体に寄生する。本体に気付かれないよう、じっくりとその脳を乗っ取りながらね』
「な、何……?」
『君はどうして、こんな暗闇で風花を認識できたんだろうね? ところでキミは鏡を見たかい? 人を辞めた姿は気に入ったかな?』
 そう。義一くんは人の姿をしていなかった。
 大きな蛾の向こう側、恐怖にひきつった彼の目はぎょろりと拡大して複眼に変わっていたし、鼻の辺りからは長い一対の触覚が伸び、口からは牙のような黒いものが突き出ていた。
 制服を破くようにして動く歩脚は三対。
 人だった頃の足をぶらさげるように、後方には半円形の膨らんだ腹部……正しく巨大な蟻だった。
 その、彼の足の届かない死角に、蛾はうまく身体を滑り込ませ、しがみついていた。
「じゃあ、風花も俺と同じ……」
『僕は、他と違ってグルメでね。人間は最低限しか食べない。大好物はキミのような蟲さ』
 私は、足早に義一くんに近寄った。
「ぎ、ぎぇあ……っ」
 丁度、私が二匹のもとに辿りついたのと、蛾が大きな口を開け、義一くんの肩口にかぶりついたのは同時だった。
 義一くんと目が合う。
「風花、許してくれ! こいつをどけてくれよ! し、仕方なかったんだ。腹が減って、腹が減って……俺じゃない。身体が勝手に、中のムシが、勝手に――風花、お願いだよ、助けてくれよ!」
『うるさいな。キミの彼女がキレて殺しまくってくれた蟲は、風花が作ってくれてた僕の餌なんだよ。おかげで、昨日は食事抜きでね。よって、君に拒否権はない。大人しく餌になってくれ――ね、いいよね、食べても? って、聞いてないし』
 私の無視を是と取ったのだろう。蛾は躊躇なくバリバリと義一くんを食べ始めた。
 粘っこい血液がどしゃぶりの雨のように降る。
 悲鳴はすぐに消えた。
 私は汚れるのも構わず、義一くんの脚が踏みつけているもののもとにしゃがみこんだ。
 力を失った義一くんの六本の足は、簡単にどけられた。
「ワコちゃん!!」
 投げ出された両腕を掴み、引っ張り出す。
 ひどい。
 ワコちゃんは血塗れだった。
 破かれた制服は真っ黒で、鳩尾辺りから下は食いちぎられていて、なくなっている。
「ワコちゃん! すぐに病院につれてくから。大丈夫だからね」
 抱き起こすと、裂けたお腹から臓物がずるりと零れ落ちた。
 ――ああ。
 私の胸中に後悔が押し寄せてきた。
 もっと早くに彼女を探していれば。こんなに汚れることなんてなかったのに。
 義一くんが憎らしい。
「見つかって良かった。本当に良かった。お母さんたち心配してたよ」
 私はワコちゃんの顔を覗き込んだ。
 唇も頬も、血の汚れと対照的に、白を通り越して蒼白だった。
 彼女が唇を戦慄かせた。
 耳を寄せる。
 が、それは言葉を紡ぐわけでもなく、口の端に血泡が浮かぶだけだった。
「うん? ごめん、何言ってるか分かんないんだ。大丈夫、今は話さなくていいよ。元気になったら、また話そ」
 笑いかけると、辛辣な声が脇から降った。
『死んでるよ、その子』
 蛾だ。
 義一くんを食べ終えた彼が、私たちを覗き込んでそんなことを言った。
「は……?」
 私は呆然とワコちゃんを見下ろした。
 濁った眼。半分とれかけた付け睫毛。だらしなく開いた唇からは真っ赤な舌が覗いている。
 痙攣を繰り返す身体はどこも朱色に染まり、千切れかけていた腕がぼとりと地面に落ちた。
 気に障る血と肉の香り。
 束の間の静寂の後、ニヤニヤと言う形容が当てはまる声音で、蛾が問いを口にした。
『まだお腹空いてるんだけど……彼女も囓っていいかな。なんて──』
「いいよ」
 私は抱いていたワコちゃんの身体を地面に放った。
 血がビシャリと飛び散った。
 蛾は、暫く逡巡するようにワコちゃんだったものと私を見比べてから、言った。
『彼女のこと、好きだったんじゃないの』
 そう。私はワコちゃんが好きだった。友達のいない私のたった一人の友達。
 だから、私は義一くんを気にしてた。
 狂おしい嫉妬と冷たい理性の狭間で、私は義一くんを見ていた。
 でも、それもおしまい。
「死んじゃったんだもん。もういらないよ」
 立ち上がると、私も全身血まみれだった。
 この制服はもう使えない。新調しないと。
『じゃあ、遠慮なく』
 言って、蛾は頭からワコちゃんを食べた。
 ご丁寧に、両腕もちゃんとまとめて口に放る。
 バキゴキと骨を粉砕する音がした。
 と、破砕音が止み、彼は一つ悪態をつくと小さな肉片を吐き出した。
『何、これ。美味しくない』
 足下に転がった肉片は、見下ろせば、ワコちゃんの指輪のはまった薬指だった。
 私は何となく、その薬指を拾い上げた。
 青白い指の切断面から、赤が線を引いて垂れる。
「ねえ、人間って美味しいの? どんな味?」
 私の興味本位の問いに、蛾はくつくつと低く笑った。
『初恋の味かな』
「馬鹿なの?」
 私は半眼で蛾を見つめてから、細く綺麗な薬指を顔の高さまで持ち上げた。
 血をすくい上げるようにして舌を這わせてから、指の付け根に吸いついてみる。
 それから、歯を立てて、肉を食いちぎった。
「へえ」と、思わず感嘆の吐息が漏れた。

「初恋って、血の味がするんだ」

彼女と彼女と彼女の恋 (了)

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