舞々花伝

「裏切らない」(5)

「元重さん!」
 見覚えのある板敷の室が見えてくる。心配に顔を曇らせた元重さんが、はっとして腕を伸ばした。
 僕もその腕へと手を伸ばす。しっかと彼は僕の――いな、しいちゃんの腕を掴むと、力強く引っぱった。
 間一髪。
 振り仰げば、がらがらと空中に穿たれた穴の奥で空間が崩れ去っていく。……やがて、それは閉じた。
「みんな、無事ですね」
 転げ落ちた僕らを見渡して、元重さんが胸を撫で下ろす。その目尻には涙が浮かんでいた。……僕は一瞬でも彼を疑ってしまったことを内心で詫びる。
「感動の再会は後にしましょ」
 たづさんは、猿彦に憑依するまで憑いていた少女の遺体を引きずり、室の端っこまで持って行った。続いて、すぐさま布団に横たわった、しいちゃんの魂の入った少女の枕元に、膝を推し進めた。
 彼女の意図をくみ取って、僕はすぐに少女の隣に横たわり憑依を解く。元雅くんはしいちゃんの元へ近づいて、ぎゅ、と妹の手を握った。
「まず、元能くんの魂を、元に戻さなきゃ」
 彼女は剣を胸元から引き抜くと、しいちゃんの魂を救い上げる。
「夬夬! そんでもって、塔配!」
 ついで、それを本来の身体へと定着。続いて、しいちゃんの身体(なか)に残っていた魂を元の身体へと戻してやる。
 青白かった二人の少女の肌に、赤みが戻りはじめる。
 息を詰めて僕らが見守る中、束の間の沈黙が過ぎ去り――
 しいちゃんの瞼が痙攣した。
 小さな渇いた唇が戦慄く。やがて。
「………………兄ちゃ」
 うっすらと瞼が持ち上がると、ぼんやりと焦点の定まらない赤い瞳が彷徨って元雅くんを探した。
「しいちゃん」
 元雅くんが涙目で破顔して、妹の足元に縋り付く。それを満足気にみやって、たづさんが微笑を零した。
「ま。ざっと、こんなもんよ」
 それから彼女は大仰に息を吐き、立ち上がった。
「…………たづさん?」
「ん? ちょっと、疲れただけ」
 一瞬、壁に手をつき俯いた彼女に僕はぎくりとした。
 肩を竦めたたづさんの顔は、紙よりも一層白かった。
 彼女はふらりふらりと危うい足取りで、蔀を開けると、中庭の方へ姿を消す。
「……たづさん!」
 僕は不安に掻き立てられて彼女を追うと、縁側へ飛び出した。
「っ…………」
 そして、庭に降り立つこともできずにその場に立ち尽くした。
 庭先に立つたづさんの長い髪が、風になぶられるまま揺れていた。
 満足気に彼女は天を仰いだ。その口元には誇らしげな、けれど少しだけ寂しそうな微笑が浮かんでいて。
 一面の星空から、彼女へ向かって小さな光の雨が降る。淡い光に包まれて、たづさんはそっと目を閉じた。
 僕はその姿を見ていられずに、俯きかけた。
 ……猿彦の胸中を思うと、胸が軋んだ。
  魂が消滅してしまえば、たづさんという存在は永遠に消えてしまう。身体を得て生まれ変わることもない。彼女はどこにもいなくなってしまう。
 なのに、彼女が笑うから。
 彼女は誇らしげにしているから。
 僕は、思わず逸らしてしまいそうになる目線を、ぐ、と上げた。歯を食いしばって、彼女の生き様を目に焼き付ける。
 どうしてだろう。
 寂しくて、辛くてたまらない別れなのに、不思議と涙は出ない。何故か……猿彦も同じ思いなのだろうと、感じた。
 やがて、蛍火のように微かな光は夜明けの光に溶け入るようにして消えていった。
 そして、そこには……天を仰ぎ立つ、一人の男が、残された。
 涙すら流せない、顔なしの男が。
「猿彦…………」
 縁側から地に降りて歩み寄れば、彼は背からヤスケを引き抜き、背を向けたまま言った。
〔ったく。あのトサカオンナ……人の言うこと、ひとっつも聞きゃしねー〕
 ヤスケを脇に挟んで、猿面をかけながら、いつもの軽口を叩く。
〔あいつ、馬鹿だ〕
 やがて僕に向き直った猿彦は、ぽつりと続けた。
〔馬鹿だ、って思った。前だったら。だが……今は違う気がする〕
 僕は頷いた。
 彼女は精一杯に生きて、消えた。
 その存在は消えてしまったけれど、彼女の意思は……彼女が守ったものは、彼女が猿彦の中に残したものは、明日へと続いていくのだ。花は咲き、やがて散り……けれど、その種子は決して消えないように。
 ――僕らはここにいる。存在している。
 過去から今、今から明日へと歩いている。全てのことは、続いていく。僕らは迷い、模索して、それでも歩むのを止めない。なぜなら、此処にいるから。この存在が、全ての物事を価値あるものにする、証明だから。
 猿彦はもう逃げないだろう。
 僕はそれを見守っていけることを、誰にともなく感謝したい気持ちになった。
「………たづちゃんは」
 不意に室から出てきた元重さんが、僕の脇をすり抜け草鞋を引っかけると庭へ降り立った。
〔消えた〕
「そうですか……」
 元重さんが俯いたまま歩みを止める。ややあってから、彼は顔を上げると問うた。
「教えてくれませんか、猿彦」
 背中からでは彼の様子ははっきりとは分からない。けれどその背はとても痛ましく、小さく見えた。
「私には君が分からない。………殺されるとは、思わなかったんですか」
〔思わなかった〕
 猿彦はにべもなく答える。
「何故……」
 元重さんは、小さく目を見開いた。
「……もう、バレてしまったんです。未だに、『良い兄』を私に押しつけるのは止めてくれませんか。私は君を殺そうとした人間ですよ」
 彼はそっと自身を抱いて続けた。
「黒翁に再会した時、私がまず感じたのは保身のための恐怖でした。君に何もかも全部ばれてしまったら、と。私は人殺しの自分を忘れかけていたんです。『良いお兄さん』の毎日がとても心地良くて……」
 一旦言葉を切ると、力なく首を振る。
「でも、それだけじゃなかった。君に顔が戻るということが、私の内で初めて現実味を帯びて……身体が凍りました。どれだけ君の苦しみを知ろうと、どれだけ良い兄を演じようと、五年前の妬みはちっとも晴れてはいなかったんです」
 ぶるり、と身体が震わせて、彼は続ける。
「私は、愚かで傲慢です。償おう、君のために生きようと決めたはずなのに……取り返しがつかない罪を犯したくせに、希望もない未来は嫌だと思っている。明日が良い日であればいいと望んでいる。納得できない。自業自得だとしても、認めたくない。どうして選ばれたのが私ではなかったんですか。何故、私は父上の子ではないんですか。……どうして、どうして、私は、君にあんなこと…………!」
 髪を振り乱し、彼は猿彦に詰め寄った。
「君が憎くて仕方がない。私がこんなに惨めになるのは、君のせいだ。君さえいなければ、君さえいなければ――なのに! なのに、私は。私は…………っ!」
 彼は声を詰まらせると、力なく項垂れた。
「もう、自分で自分が分からないんです。君を、憎んでいるのか、大切に思うのか。悩んで悩んで、けれど、答えは出ずに……疲れてしまった」
 いつもと変わらない声。いつもと変わらない穏やかさ。けれど、その時、なんとなく不安なものが、僕の胸中に沸き上がった。
「不謹慎ですけど……五年間、楽しかったんですよ。猿彦。――本当に」
 決意の滲む声が告げる。と、同時にその右手が鞘走った。
 逆手に持った短剣に、生まれたばかりの陽光が白く反射する。
 彼は迷いなく刀剣を自身の首へと振り下ろした。
 ヤスケが地に放られ、からりと音を立てる。
 猿彦が手を伸ばす。
 けれど、その手は、
 ――――――間に合わない!
「刀が、動か、ない……? まさか」
 しかし刃は元重さんの首をかっ斬る前に制止した。
「よ、良かった……」
 僕は安堵に戦慄く溜息を漏らし、握った剣を見下ろした。
 それは、彼が舞々だった頃、使っていた神器だった。
 ……危なかった。
 自分が怨霊だとかそんなことさえ忘れて飛び出したものの、彼が手にした剣が、僕でも触れることのできる神器でなければ、確実に彼の命は自ら絶たれていただろう。
「敦盛くん? は、放しなさい。放しなさ―――っ!!」
 暴れ出した元重さんから剣を取り上げれば、すぐ側まで迫っていた猿彦が、彼の頬を拳で打ち付けた。
 吹っ飛んで地に蹲った兄を、荒く肩で息をつく猿面が見下ろす。
 猿彦はヤスケを目で探したが、すぐに取りに行くのをやめた。代りに僕に来るよう顎をしゃくって命じる。
 僕は素直に従った。
「あんたが、ここまで馬鹿野郎だとは思ってなかった」
 僕は一言一句違わず、猿彦の声を口にした。
「あ、つもりくん……? いや、猿彦?」
 元重さんはびくり、と顔を上げた。
 脳内では、僕の声は弟の声に聞こえているに違いない。
「なあ。兄弟ってのは、バカマサとしいみたいなのをいうのか? 俺はあんたが、あんな風にべたべたしてきやがったら、正直、気持ち悪いわ」
 面をかけたまま、そう吐き捨てると、猿彦は兄に人さし指を突きつける。
「あんたは俺が嫌いなんだよ。だが、ほんのちょびっと好きな部分がある。それでいーじゃねぇか。面倒臭ぇ」
 元重さんがぽかんとする。
 僕は元重さんの矛盾を思って目を閉じた。
 きっと……一人の人間を、好きだと言い切るのが難しいように、嫌いだと言い切るのも難しい。だから、彼の混乱は、普通のこと。
 好きか嫌いか……それは決めつけることじゃない。嫌いだって思う彼もいて、でも、それが全部ってわけじゃない。猿彦に生きて欲しいと思ってる元重さんも確かに存在する。それが、彼が猿彦と共に生きた五年間……
「あと。今みたいな事は二度とすんな。終わらせるのは、誰にだってできるんだよ。これは、とある阿呆帝の受け売りだけど」
「貴方はそれで良いんですか? ……私は猿彦、君から最も大切な――舞々である事を奪ってしまったというのに」
「あー……それな。別に大した事じゃねぇよ」
 猿彦は大げさに肩を竦めてみせた。
「ってか、顔がなくたって舞々できるって気付いたし――あ。お前が使えるって言ってんじゃねぇからな」
(…………じゃぁ、どういう事だよ)
 どうせ僕じゃ力ある怨霊には太刀打ちできないけど。それなら、どういう意味なのか。
 元重さんも僕と同じことを思ったのだろう。訝しげにするのに、猿彦は胸を張って言った。
「持ち霊を増やす」
(はい?)
「ですが、その顔では……」
「そこが俺様の力の見せ所だろ。敦盛を従えてるようにこの俺様の人格で協力をあおぐ」
 人格? ……僕の聞き間違いだ。そうに違いない。
「んで、黒翁にも勝る神とか怨霊探し出して、バカマサ以上の力を手に入れて、もう一回、大夫に返り咲いて見せる。あいつ、俺に完膚無きまでに打ち負かされてぇみたいだし。それに、こんくらいの不利な条件があった方が、力の差、歴然としてて気持ちいいだろ?」
 くっくっく、と腰に手をやり、猿彦は低く笑った。
「猿彦、それは……」
「ああ。俺、もう一回大夫目指す事に決めた。っつーわけで、顔が無くなった事なんぞ、俺にとっちゃ屁でもねぇから」
 言って、彼は力強く頷いた。
「…………だからもう、自分、責めんな」
 それから元重さんの手を取り、兄を立ち上がらせた猿彦は、そう呟くように吐き捨てると、さっさと憑依を解いた。
 元重さんがぽかんとする。
 その頬に、つ……、と、一筋、光るものが流れ落ちた。
〔つか、もう暫く俺の顔戻ってこねぇし。まだ、あんたに死なれちゃ困るし〕
 ヤスケを拾い上げた猿彦は付け足す。
「ごめ…………ごめんなさい、猿彦」
〔俺の方こそ……いろいろ――悪かった。本当に。んで、今まで支えてくれて……あんがと〕
 元重さんは顔をくしゃくしゃにして、首を振ると、顔を覆って泣き崩れた。

( 八ノ段 了 )