舞々花伝

「裏切らない」(2)

「猿彦!! 元雅くんッ!!」
 勝負は一瞬でついた。
 場の中央で高笑いする黒翁に、左右から飛びかかった二人は、呆気なく吹っ飛ばされたのだ。
 黒翁はしいちゃんの顔で酷薄な、それでいて艶やかな、壮絶な笑みを浮かべ立っていた。
「ぬるいわ! これでわらわを使役しようというのだから笑ってしまう」
 二人は、足を踏ん張って立ち上がった。けれど、元雅くんが腹部を押さえて、途中で膝をついた。先ほど刺された箇所だろう、衣の腹部が真っ赤に染まっていた。
 ヤスケに寄り掛って立ち上がると、猿彦はそれを頭上で一回転させ再び構える。
 黒翁の赤い瞳が猿彦を見て楽しげに歪んだ。
「さすが、元我が主殿。もう少し遊んでもらわねば、わらわの不満は解消されぬ」
 何度やろうと、勝負は見えていた。
 肩で息をする猿彦。対する黒翁は汗一つかいていない。本領発揮の神の力をまざまざと見せつけられて、僕は立ち尽くした。
 負ける――初めて、猿彦に感じた不安と、失うかもしれない恐怖。
「これ以上は無意味だわ」
 その時、僕の右隣でたづさんが声を張り上げた。
「剣は、出す。だから、これ以上の事はやめて」
 言って、たづさんは黒翁へと近づいた。
〔馬鹿言ってんじゃねぇ! こいつを自由にしちまったら、大勢の人間が喰われるんだぞ!!〕
 猿彦の叫びを無視して、たづさんは黒翁に近づくと、自身の胸元へ手を突き入れた。
「これが……魂切りの剣よ」
 ずるり、と胸の辺りから取り出した剣を、黒翁の小さな手に渡す。黒翁は目を細めてそれを見下ろすと、深く頷いた。
「なるほどの。お主の魂の一部だったわけだ」
〔させるか……ッ!〕
 飛びかかる猿彦を、指を爪弾く動作だけで追いやった黒翁は、剣を舐めるように見やると躊躇なく自身に剣を突き立てた。
 足元に影が滲み、ぐわっと黒く大きな獣のような魂が吹き出す。
 その中央には白い球。そこに目鼻立ちの造形が刻まれていると気付くまで、時間がかかった。
 あれが猿彦の、顔……?
「これで……」
 刀身を刺した部分から、放射線状に白い光が四方に走った。
 光が散ると、猿彦の顔だろう中心の白い円がぐい、と浮かび上がる。
「ふ、ふふふ……これで、これで、憎きこの顔とも離れられる! わらわは、自由じゃ。自由じゃあああっ」
 ――――――けれど。
「な、に……!?」
 ぎりぎりと引き延ばされたものの、その光は結局、黒い魂に引っ付いて離れなかった。しばらくすると、光自体が収まってしまう……
「何故じゃ。何故、奴の顔が離れぬ。どんな魂も切り離せると、そのような剣だと申したではないか!!」
 黒翁の怒りに燃えた瞳に、たづは戸惑いながら首を縦に振った。
「そうよ。何だって切り離せる……」
「だが、できない。貴様っ!! この期に及んでわらわを謀ったか!!」
「ち、違うわよ。それは、本物よ!」
 はっとしてたづさんが猿彦を振り返った。
「猿彦!? あなた、まさか――」
〔俺はこれでも元若大夫。不祥事を起こすわけにはいかねんだ。…………死んだってな〕
 たづさんが救えなかった人に、死んだ母親に取り付かれている子供がいた。その時、彼女は言ったのだ。人の側が自ら離したくないと望む場合、除霊はできない、と。
 猿彦はあれだけ顔を切り離したい、取り戻したいと願いながら、観世の家の者としての義務を果たそうというのだ。例え……大夫でなかったとしても。それが……舞々の誇り。
「ちぃぃぃっ!! 皆殺しじゃ! 全員、斬り裂き殺してくれるっ!!」
 黒翁はそう絶叫して、両手を天へ延ばした。闇が渦を巻き始める。彼女は空間ごと僕らを沈めてしまうつもりらしい。自由を手にいれるよりも、目の前の苛立ちを解消する方を取るつもりなのだ。
〔敦盛〕
 呆然と、その膨大な邪気の奔流を見上げていた僕を、猿彦が呼んだ。
〔笛の用意をしろ〕
 それから、元雅くんに向き直ると、怪我人に思いやりの片鱗もなく命令を下す。
〔元雅、立て。んで、さっさとこっちに来い〕
「猿彦……? 一体」
〔こいつらを向こうに戻す〕
 元雅くんがなんとかやって来たのを確認してから、一言、猿彦は告げた。
 それは死を覚悟した〈声〉だった。
――俺ら舞々は、命をかけて舞う。
――だから、面はかぶるじゃなくて、『かける』んだ。
 出会った当初、猿彦はそう言って、舞々がなんたるかを僕に教えてくれたのを思い出す。
〔あ。だが、敦盛。お前はダメだ。逃げんじゃねぇーぞ〕
「…………分かってるよ」
 僕はきょとんとしてから、ニヤリと不敵に見えるよう口の端を持ち上げた。
 僕は猿彦が死ぬまで一緒。そんなことは、彼の持ち霊になった時から覚悟はしているんだ。
 ……一度、僕は死んだ。それも、これ以上にないほど情けない最期だった。でも、今度は間違えない。一人じゃない。
「な、に言ってんの……彦兄」
 その時、立ち上がるのもやっとの元雅くんが、更に顔を蒼白にして声を震わせた。
〔呆けた顔してんじゃねぇ。しっかり敦盛に捕まっとけ〕
「馬鹿を言うな! 僕は舞々だ。逃げるわけにはいかない!!」
 元雅くんの悲鳴にも似た、怒号……
「神を制御し、人々を守るのが舞々の使命。その舞々が、自身の命が危ういからって、人に危害を加えるに違いない奴らに背を向けていいはずがない!! 僕は逃げない!!」
 彼らは武士じゃないけれど、武士に負けず劣らずもののふだった。
「それに、しいをこのまま――」
〔てめぇは次の大夫だ〕
 いきり立つ元雅くんが、ヤスケに浮かび上がった文字に息を飲んだ。何事か言おうと形の良い唇を開閉させてから、彼はやがて項垂れる。
「…………大夫なんてどうだっていい」
 ややあってから、元雅くんの唇からはっきりとした声が零れた。
〔あ?〕
 今にも僕を降ろそうとしていた猿彦が動きを止める。
「大夫なんてどうだっていいって言ったんだよ!」
 顔を上げた元雅くんは、今にも泣きそうな顔をしていた。
「重兄は絶対に言わないだろうけど……あの人に毒を渡したのは、母さんなんだ! そんな風にして得た大夫に何の価値がある? 滅びるなら、滅びてしまえばいいんだ、あんな家――」
 激昂する彼は、中途で言葉を飲み込んだ。ぎゅむ、と猿彦に鼻を摘まれたのだ。
大夫(あたま)のくせにンな事言うんじゃねぇ〕
 思わぬことに目を白黒させていた元雅くんは、唇を噛むと、項垂れた。
「…………母さんは余計なんだ。僕の方があんたよりも力があるっていうのに、あんな汚いやり方。僕はそんな風に大夫になっても嬉しくない」
 元雅くんは、決して謝らない。
 母の気持ちを最も理解しているのも彼だからだ。
 そんな彼を、猿彦はもう、責めなかった。
〔……お前、自意識過剰過ぎ〕
 自意識過剰の親玉が肩を竦める。猿彦は元雅くんの顎を取ると無理矢理上向かせた。
「触るな! はな――」
〔わーったよ。もう一度、俺様が大夫候補に返り咲いて、力の差ってもんを見せつけてやりゃーいいんだろ〕
「は……? どうやってだよ」
〔戻ったら考える〕
 猿彦は、顔があったら面の下で笑ったに違いない。元雅くんがぽかんとする。
〔だから、今はお前、一旦戻れ〕
 頭をわしゃわしゃとかき混ぜる兄の手を払って、元雅くんはそっぽを向いた。
「…………嫌だ」
 その彼の頬を猿彦は片手で掴み、ヤスケがよく見えるように突きつけた。
〔ぶん殴るぞ〕
「殴れよ! 絶対に嫌だ!!」
 珍しく子供のように拒絶する弟に、猿彦は元雅くんの頬を掴む手に力をこめる。
 と、その時、僕の脇をすり抜けて、たづさんが猿彦の袖を掴んだ。
「猿彦……あなたの、身体を貸して」
 一言、彼女はそう告げた。
「あなたには、悪いけど……あなたの顔がくっついたままなら、できると思うの。力を……完全に力を出す事ができれば。だから」
「それはダメですよ。あなたにはもう――」
 その申し出に、僕は思い切り首を振った。
 猿彦が守りたいのは、元雅くんと、たづさんなのだ。
 行く手を阻むよう間にたった僕を、彼女は押しやり、猿彦に言い募った。
「今、あなたが優先したい事はなに? 元雅くんの無事? ついでにあたしの無事? 違うわよね。第一優先は、彼女が人に危害を加えないようにする事。それが舞々の仕事でしょう」
 それから、満身創痍の元雅くんと猿彦を見比べて、続ける。
「このまま、あなたが……いえ、元雅くんも一緒だとしても、命掛けでやりあってなんとかできる可能性は確かじゃないんでしょ? だったらあたしに任せてみてよ。あたしなら黒翁を痛めつける必要もないし、近づくだけ。それで失敗したら、あなたたちがやればいい。悪い案じゃないと思うの」
 確かに彼女の言う通りだった。それこそ最も成功率の高い方法だ。けれど、それにはたづさんが犠牲にならねばならない。すでにもう、彼女の魂は限界を迎えているのだ。その上、今、力を使ったりなどしたら……今まで一般人だからこそ、抑えられていたのに、猿彦の身体を使えば、もう力を抑制することはできない。彼女は魂が燃え尽きるまで力を使い切るだろう。それが分かっているから、僕は頷けないのだ。
 僕はちらり、と猿彦を見た。
 今まで冗長だった彼は、黙り込んでいた。
「あなたたちに誇りがあるように、あたしにだって四百年の誇りがある」
 たづさんは猿彦の頬を両手で包み込むと真っ直ぐと見つめた。
「逃がされるだけなんてイヤよ。あたしは生者を救う者でありたい。ねぇ、猿彦。四百年はこの時のため。このためにあたし、生きてきたんだって思う。あたしに、あたしを裏切らせないで。……お願いよ」
「たづさん……」
 真摯な願いだった。そこには、彼女の生きてきた年月分の重みがあった。
 猿彦に守りたい誇りがあるように、彼女にもあるのだ。貫きたい自己が。
 そして、そんな彼女のことを……猿彦は好きなんだと、僕は知っている。
 猿彦は自身の頬に触れるたづさんの左手を、ヤスケを持つ逆の手で掴んだ。
「猿彦…………?」
 唐突に腕を引かれて、たづさんが体勢を崩す。その彼女を、猿彦は片腕で抱いた。
 ――――きつく、きつく。
〔馬鹿野郎が〕
 たづさんの頭を自分の肩口に押しつけ、呟いた声はヤスケの平面に浮かんで消えた。ついでガランと、大杓文字が地に転がる。


 ……それが、答えだった。