舞々花伝

「裏切らない」(1)

 ぽっかりと空いた空間に足を踏み入れた僕は、その異様さに一瞬息を飲んだ。
 闇の空中に張り巡らされた、膨大な量の白い切紙……そこには白鷺や、梅、紅葉、水の紋様などが示されていた。四季を、世界を超越した、あの世とこの世の狭間だった。その切紙が表わすように、場には白い粉雪が吹き荒れ、けれど手のひらに触れたそれは、一瞬後は桜の花びらになり、足元に茂る緑の草は刻々と茶や緑に色を変えていた。
 ――異様な光景だった。秋から春が生まれ、夏から冬が生まれる、狂乱する四季が支配する空間。
 その下には一本の細く白い道が伸びていた。
 それはふらりふらりと頼りなく、現れては消えるを繰り返す。その上を同じく明滅する、しいちゃんの赤い、命の糸……
 僕は、元雅くんが後ろからついて来ているのを確認してから、再び笛へと息を吹き込み、時空を裂く。
 意識は紅の糸に一点集中。
 目前に闇を切り取った方形が集まると、揺れ動く道と命糸の姿がはっきりと浮き上がる。僕らは躊躇なくその上を走った。浮かび上がったそばから、それは再び闇に滲んで消えてしまう。
 無間の狭間。
 一歩間違えれば、時も空間も留まることを知らない場に取り残されてしまうだろう。踏み込んだ時から、僕らはしいちゃんの命糸を辿らずには戻れなくなった。……躊躇っている暇はない。
 甲高い音が次々に空間を繋げていく。そこを駆抜けていると、突然、白い道が消えた。
「……へ?」と、口を半開きにしたまま、僕は消滅した道の下に落下した。
 下は張り巡らされた切り紙がゆらゆら揺れるだけで、底は見えない。
 白紙を巻き込みながら落ちる、落ちる――
 恐怖に身を強ばらせれば、思ったよりもずっと早くに底へと辿り着いた。
「ふぎゃっ」
 尻を打つと同時に、変な悲鳴をあげた僕は、驚きのために、猿彦の身体から飛び出した。
「ったた。って、ここは……?」
 憑依が解けてしまった僕は尻を撫でながら、辺りを見渡した。先ほどと変わらず、宙には白い紙が浮かぶ。ただ、紅の糸だけがない。
 僕は途方に暮れて、ばらばらと無残にも破れた切り紙が雪のように降る暗い天を見上げた。
〔とりあえず、近づきはしただろ〕
 猿面をかけ直し、背からヤスケを抜き放った猿彦が一歩進み出る。その後に続いた元雅くんが、僕をキッと振り返った。顔を顰めているのはさっきの衝撃で傷が痛んだ……のだと思いたい。
「きちんと、辿れたんだろうね」
「も、もちろんだよ! ただ、途中で命糸が見えなくなっちゃって……しいちゃんの元まではいけなかったけど」
〔隠されたな〕
「ま、ちょっと考えれば知れるよね」
 猿彦の言に元雅くんが頷く。
「でも、すぐに飛んでこない辺り、黒翁もまだ本調子じゃないみたいだ」
 言って、彼は前方を見据えると目を細めた。僕はその視線を追い掛け、行く手を阻むものに震え上がる。
「大歓迎だね」
〔黒翁の奴……なかなか俺らの趣向を把握してやがるぜ〕
 目前に突如、浮かび上がった黒い影。猿彦たちよりも二回り以上も大きいそれは、沼地の底を掬い上げた、腐った泥が形を持ったようだった。全身がぬめり気を帯び、上部には濁った赤い光が鋭く輝く。発せられる障気は腐った魚類を思わせた。――あの世にも渡れず、この世にもとどまれず、時空不確かな狭間で淀んでしまった死霊の残骸。それらが、団体でずるずると歩み寄って来たのだ。
 尻込みする僕とは裏腹に、それぞれの武器を手に前へと進み出た兄弟はどこか楽しげだ。
 こんな時ばっかり。などと内心溜息を吐かざるを得ないけれど、いつもは頭を悩ませる好戦的な性癖が、今は心強い。そんな姿に、僕も勇気づけられる。――などと、思ったそばから、
〔敦盛! てめぇは命がけで隠れてろ〕
「何それ!? 僕ってそんなに役立たず!?」
 猿彦に出鼻を挫かれた。
 ……そりゃ、今のままでは武器一つ持たない僕は役立たずだろう。力を引き出す舞々に憑依しなければ、ふわふわ浮いている綿と変わらない。でも、猿彦に身体を借りられれば――と考えて、それでも有用性はなさそうで、僕は落胆した。空間を切り裂けば、せっかくしいちゃんまで近づいたのが水の泡になってしまうかもしれないし。
 だけど「隠れてろ」は納得できない。僕にだって、猿彦の相棒として三年間、死線をくぐり抜けてきた誇りがある。それに、
「…………僕だって武士だ」
 幽霊になっても。例え黒翁を前に、恐怖で腰を抜かしていたとしても。
〔阿呆〕
 そんな僕の頭頂に、容赦なくヤスケが振り下ろされる。そしてとどめをさすがごとく、冷え冷えとした呆れた声で元雅くんが言った。
「お前が笛吹けなくなったら、どうやって帰る気なの? 馬鹿なの?」
「あ、なるほど」
 手を打った僕に、猿彦は肩を竦ませてから、敵に向き直った。
〔……行くぞ〕
 元雅くんがせせら笑って応える。
「僕に命令するな。黙れ、のっぺらぼう」
 いちいち突っかかるのを忘れない。生意気な弟を張り倒さんと、ヤスケがぶん、と空を斬る。それを軽々と避けて、元雅くんは怪我人とは思えない身のこなしで死霊の群へと躍りかかっていった。


 猿彦と元雅くんが死霊らを切り崩した道を、ひたすら進む。……僕は障気の匂いに袖で鼻を覆いつつ、なんとか二人を追った。余りの臭さに目に涙が滲んで視界がぼやけている。
〔ああ、くそ。こっちで合ってんのかよ!? 方向すら分っかんねぇ!〕
 死霊を吹っ飛ばすヤスケに文字が浮かぶ。前を行く元雅くんがそれを一瞥して、頷いた。
「あってるよ。霊糸はこっちに続いてる。しいちゃんはこっちにいる」
 命糸を隠されてからしばらく経つが、元雅くんの霊糸に気付かれることはなかった。さすがの黒翁も、自分が乗っ取った身体に霊糸が付けられているなどとは思わないのだろう。
 しいちゃんの居場所はひとまずどうにかなるとして……あとは、たづさんを見つけるだけだ。
「たづさんは黒翁と一緒にいるんですかね」
「さぁ。ただあの人は歩き巫女だから。黒翁が定着のために寝ているとしたら、側には置かないだろう。無防備な所を除霊されてもかなわないし。僕なら自分の身体が落ち着くまで人質は拘束してどっかに放っておくかな。……でも、こんな所で迷子にでもなったら、それはそれで面倒だから…………近すぎず、遠すぎずな所に置いとくだろうね」
〔探さなきゃなんねーだろーな、やっぱ。くそ面倒だな……ま、黒翁をふんじばって場所を聞き出しゃいいか〕
 どちらにせよ、一筋縄ではいかない。
 と、そんな風に猿彦が肩を竦めた時だった。
「どぅりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「こ、この声は――」
 聞き覚えのある声が、死霊らの群れの向こうから聞こえてきた。
「大人しく捕まってると思ったら大間違いよ! かかってらっしゃい!!」
 慌てて猿彦が、前方の死霊らを切り崩せば、たった今、探しに行こうとしていたたづさん本人が奮戦していた。あの感じだと、自力で逃げ出してきたらしい。
 さすが四百年も歩き巫女をやって来ただけあって、死霊相手にも物怖じせず果敢に立ち向かっている。動きにも迷いがない。
 が――――
「てぇいっ!! ……え? ええ? うそ!」
 と、ぴたりとたづさんの動きが止まった。 死霊の振り下ろしてきた腕を蹴り上げ、怯んだ所に突き刺した剣が抜けなくなったのだ。すぐに獲物を捨てようと決意したようだったが、判断が一瞬遅れた。
 背後に迫る一体の死霊。
〔あんの、馬鹿!!〕
 僕の横を疾風の如く、猿彦が駆け抜ける。
 自身に襲いかかってきた死霊は無視、というより元雅くんに丸投げして、彼はそのまま前方へ――たづさんの所へと突っ込んだ。
 ヤスケが危機一髪でたづさんへと伸びた腕を千切り落とす。ついで、その勢いのまま、猿彦は右足を軸に半身を回転させると、紫銀の光に包まれたヤスケで、死霊を下から袈裟懸けに斬り上げた。
 たづさんを追っていた死霊らが驚いて包囲の円を広げる。
 猿彦は辺りの敵などお構いなく、驚くたづさんの両肩を掴むと、その顔を覗き込んだ。
「え、っと、猿彦………?」
 猿彦は……彼女に傷がないのを確認すると、安堵の溜息を吐いた。ついで、苛立たしさを逃がすように、ヤスケで足元を叩く。
〔ばっか野郎!! 大した力もねぇくせに何はしゃいでんだ!〕
「ご、ごめん…………」
〔いいか。もう力、使うんじゃねーぞ。ったく、無茶苦茶な女だな。お前にゃ、もう力を使うほどの気力は残ってないんだって自覚しろ! ばかたれ!〕
 殊勝な態度で謝罪するたづさんの腕を掴んで立たせる。そこに元雅くんと僕が合流、四人で敵に対峙した。
〔……ひやひやさせんなよ〕
「猿彦?」
 苛立たしげにそっぽを向いた猿彦に、たづさんが首を傾げる。やがて、掴んだ手を離さないでいる猿彦に、彼女は顔を赤らめた。
 それは猿彦にも伝染し、なんとも言えない空気が、二人の間に漂う。
「彦兄」
 元雅くんに呼ばれて、慌てて猿彦は手を離した。やがて前方を見遣った僕らは、
〔おでましか〕
 しいちゃんが――いな、しいちゃんの身体を奪った黒翁が、行く手の先に立っているのに気付いた。
「貴様ら……」
 死霊らが一斉に霧散した。
 彼女の神気に当てられたのか、純粋にもう僕らを襲うほどの力が残っていなかったのかは知れない。
「どうやって来やった? 命糸は隠したはずじゃが」
〔お前も想像できねーほどの変態馬鹿野郎がいたんだよ〕
 言って、猿彦はたづさんを背に庇うと一歩前へ進み出る。
「まあ、よいわ」
 黒翁は猿彦の答えなどさほど気にせず、手を口元に当てると、ふあ、と子供らしい欠伸を漏らした。
「そろそろ起きようとは思っておったのじゃ」
 言って、彼女は輝く瞳で自身を見下ろした。
「やはり、素晴らしいの、観世の身体は。力が溢れて身体中が満ち足りておる」
「それは、しいの身体だ。今すぐ返せ」
 元雅くんが鼻に皺を寄せる。それに黒翁は艶やかに笑うと首を傾げた。
「大人しく返すと思ってか?」
「…………殺すよ、お前」
「ふふ……あっはっはっはっは! お前、この身体を傷つけるのか? 大事な妹の身体を?」
 それには答えず、元雅くんが腰元から面を取り顔にかけた。気品に満ちた、誇り高さの伺える美女……増女の面。ついで、ぶわっと元雅くんの白練りの狩衣が膨らんだかと思うと、鮮やかな赤色に染まった。頭頂で纏めた髪が解き放たれ、逆立った。ついで面に変化が現れ始める。
 白い肌は赤く、眉間には怒りの皺が縦に深く走った。カッと刮目した金泥の瞳、引き延ばされた口元から漏れ出る恨みの吐息。
 ――憑依。
 持ち霊を降霊させた元雅くんが、打ち杖を撓らせ身構える。すると示し合わせたかのように、猿彦がぶん、とヤスケを振って黒翁に飛びかかった。
「笑止!」
 黒翁の哄笑が響く。
 切り紙が、桜の花びらのように散る中、光と炎が狂ったように吹き荒れた――