舞々花伝

黒翁襲来(6)

 目の前で繰り広げられる死闘に、僕は息を引き攣らせた。隣でしいちゃんも呆然と立ち尽くしている。
 黒翁が今回選んだ身体は以前よりも降霊に向いていたのか、彼女は、以前とは比べようもないほど動きに切れがあった。
 繰り出される力の奔流に、一怨霊として、彼女の神格を認めないわけにはいかない。彼女の力には、背筋に薄ら寒いものを感じる。
 しかし、彼女の主たる元雅くんはその遙か上を言っていた。持ち霊を憑依すらさせず、彼自身の霊力だけでやりあう……若大夫というのは伊達ではない。むしろ彼よりも優れていたという元重さんや猿彦がどれほどの舞々だったのか想像もつかないほどだ。
 息を飲む死闘は、すぐに決着が付いた。
 どしゃり、と地に沈んだ黒翁を元雅くんは涼しげに見下ろした。その整った横顔には、汗一つかいていない。息一つ乱れていない。
「……お前さ、弱いね。こんなんじゃ、手にいれても、使えそうもないな」
 打ち杖でそっと自分の唇に触れた。その姿はどこまでも艶やかだ。
「もう、いいや。お前とやり合うのつまんないし、主人に噛みつく狗はいらない。消えろ」
 地に爪を立てた黒翁が元雅くんを睨み付ける。
「…………まだじゃ」
 その憎しみに燃える暗い瞳が、僕らの方を一瞬見た。かと思うと、彼女は口元だけで笑む。――――その瞬間!
 地鳴りが轟き、黒翁を中心に大地が放射線状にひび割れた。同時に、ごおっと突風が吹く。
「しい! 伏せ――」
「きゃっ…………!!」
 元雅くんの警告は間に合わず、暴風にしいちゃんの小さな身体が吹っ飛んだ。
「しい!」
 彼女は本堂の扉に容赦なく叩きつけられた。そのままずるずると力なく崩れ落ちる。
「き、っさまああああ!!」
 正体を無くした元雅くんが吠えて黒翁へ飛びかかった。
 僕は慌ててしいちゃんに駆け寄った。しゃがみ込んで、その顔を覗き込む。……呼吸はしていた。気絶しているだけだろう。
 ほっと安堵の溜息を零すも、このままこんな危険な場所に置いておくわけにもいかない。僕は自分の面のことも忘れて、猿彦を呼びに踵を返した。と――――
 ぞわり、と全身が粟立ち、僕は動けなくなった。


 オロロロ
 オロロロロロン


 背後で爆発する霊気。
 風になぶられる髪を右手で押えて、僕は恐る恐る振り返る。
 大きく膨れ上がった黒い影が、黒翁に憑依された少女の身体から吹き出ていた。
 寺の屋根よりも高くのぼり立ったそれは、夢見るようにゆらり、ゆらりと揺れていた。先ほどとは打って変って静かなのが、尚更恐ろしい。
「今更、本気になったって、遅いんだよッ!」
 元雅くんが高く跳躍、優雅に打ち杖を翻す。杖の描いた爪形の曲線が、炎を思わせる紅の光を発して黒翁へと襲いかかった。
 黒翁は迫り来る攻撃にただただ身体を縮こまらせ震えただけだった。けれど、何か障壁でもあったのか、光は彼女には届かず霧散する。
「駄目だ、元雅くん!」
 思わず叫んでいたのは、猿彦の顔を思ってか、それとも――元雅くんの身を案じてか。
「―――――なッ!?」
 二撃目を繰り出そうとしていた元雅くんの身体がふらついた。
 次の瞬間、轟音がたち、彼は軽々と地に叩きつけられる。
――ア……アア…………
 影が震えた声を上げた。
 僕の目には、影は自衛しただけのように見えた。……それは、とても恐ろしいことだ。単なる自衛で、今まで善戦していた元雅くんをひねり潰したのだから。
 何だ……?
 僕はぎゅ、と眉を寄せる。黒翁は変質していた。何か得体の知れないものに……
「あ、敦盛、さん……」
「しいちゃん!?」
 と、隣でしいちゃんが目を開けて、僕の思考は中断された。
「良かった……気がついたんだね。大丈夫? 痛いところない?」
「たづ、何処?」
 彼女は覚束ない足取りで立ち上がると、開口一番そう訊いてきた。
「……まだ、猿彦と一緒にいると思うけど」
「何処? 連れていって」
 水晶のように澄んだ、大きな赤の瞳が命じる。煌めく有無を言わせない強い光。
「……しいちゃん?」
 す、と僕の方に伸ばされた小さな手。
 僕は何故だか恐怖を感じて身を引いた。
 彼女はきょとんとしてから、小さく笑った。
 一歩、また彼女が僕に近づく。
 何だろう。背中に冷や水を流し込んだような、恐怖が迫り上がってくる……と、彼女の指先が僕に触れる間際、しいちゃんはバッと殺気立って背後を振り仰いだ。
 たづさんを伴い、猿彦が慌てて駆けてきたのだ。僕は知れず胸を撫で下ろす。
〔黒翁の野郎……いっつも邪魔しかしやがらねぇ!〕
 猿彦は元雅くんと同じようなことを言ってから、忌々しげに髪に手をつっこむと、ぐしゃりとかいた。
〔ちくしょう。まだ、話は終わってねーのに……!〕
 謝るだけでどれだけ時間がかかっているのさ……などと、呆れている場合じゃない。
「猿彦。今、元雅くんが」
 僕の指摘に、彼はじっと食い入るように黒翁を見やると、しいちゃんの腕を掴んでたづさんを振り返った。
〔たづ! お前は隠れてろ。あいつの狙いはお前だ〕
「うん。元能くんおいで。一緒に隠れてよう」
 手招きするのに素直に頷いて、しいちゃんがたづさんの元へ駆け寄る。
「この子は任せて。……気をつけてね」
〔おう〕と、たづさんに深く頷いてから、猿彦は木から僕の面を取り外すと腰に括り付けた。
 一抹の不安と共に、二人を見送った僕は、猿彦の隣に並ぶと共に敵へと向きなおる。
〔……っつか、何で黒翁は暴走してんだ? 俺の顔はどうした?〕
 顎を手に、首を捻っていた猿彦だったが、
〔…………まさか。――たづ!〕
 呟くやいなや、今さっき去っていったたづさんを振り返った。しかし二人の姿はすでにない。
〔やられた……っ!〕
 猿彦は二人を追おうとして、元雅くんの呪を紡ぐ声を耳にすると、ぐ、と足を踏ん張った。
「猿彦!?」
 わけが分からない僕を置き去りに、彼は舌打ちすると、黒翁を庇うように元雅くんの前へ飛び込む。
〔元雅!!〕
 元雅くんは兄のことなど気にも止めず、呪を舌に乗せ続けた。
「曩謨三曼荼縛日羅南」
 不動明王の祕法……元雅くんは本気で猿彦の顔ごと、観世座が継いできた一柱の神を滅ぼそうというのだ。
〔やめろ、元雅!!〕
「東方に降三世明王、南方に軍荼利夜叉、西方に大威徳明王、北方に金剛、夜叉明王、中央の大聖不動明王」
 呪と共に、颯爽と腕を振るう。それに、ヤスケを構え直した猿彦も、意識を集中し始めた。
〔一空一切空無假無中而不空!〕
 中断の呪が飛ぶ。
 その妨害に、元雅くんは整った顔を歪めて、苛立たしげに舌打ちした。
「あんたがまいた種だろ。今まで散々迷惑かけて――――まだ足りないわけ」
〔読め、元雅!〕
 猿彦の言葉に滲むのは、怒りじゃなく焦りだ。
〔俺の顔なんぞどうでもいいんだ! だが……こいつを傷つけるのはやめ―――〕
「避けないと、死ぬから」
 打ち杖を唇で挟むと、元雅くんは両手を打ち鳴らし、素早く印を結んだ。
「曩謨三曼陀縛日羅南、旋多摩訶ロ遮那、娑婆多耶吽多羅他漢満!」
〔こんっの、馬鹿野郎!!〕
 天が轟き、目を焼く光が放たれる。
 思わず目を閉じていた僕は、吹き荒れる暴風が収まってやっと薄目を開け……
 息を、飲んだ。
 地響きのごとき低い声をあげてもがく黒翁だったが、怪我を負った様子はない。
 何故なら――――
「猿彦!?」
 依代の少女を抱きしめるようにして、猿彦が庇っていたのだ。
 ガクリ、と彼は膝をついた。その背には大きな裂傷……そこから流れ出る朱い血が、大地を黒く染める。
「な、んで…………」
 ふらり、と少女にもたれ掛かった猿彦の姿に、元雅くんが愕然とした声をあげた。
「猿彦? ……なに? どうしたの」
 慌てて駆け寄った僕の気配に気付いた相棒は、何か言おうと顔を上げる。けれどヤスケは遠くに吹っ飛ばされていて側にない。
 声など聞こえるはずもないのを失念して、ついつい彼の言わんとしたことを聞こうと僕は身を屈めた。
「え……?」
 と、そんな僕に、猿彦は苛立たしげな素振りで黒翁の憑かれた少女の腕を掴むと、彼女を僕の方に押しやった。
 僕はぎくりと身構えて……それから、はっとした。
 恐ろしい女神はあれほど憎しみに燃えていたというのに、攻撃一つしてこない。それだけでなく、訝しむ僕の鼓膜を、
――ニィ、チャ
――ゴメ……ニイチャン、
――……ゴメンナ……サ……
 鈴の音のような、微かな声が震わせた。
「…………ま、さか」
「どけよ、敦盛。とどめ刺すんだから」
 いつの間に近づいて来ていたのか、元雅くんがすぐ側に立っていた。猿彦を蹴りどかすと、ついで僕に打ち杖を向ける。
 僕は両手を広げて黒翁を背に庇うと、彼を見上げた。
 元雅くんの氷のような、尖った静かな怒りに、僕は息を飲んだ。足が竦む。唇が震える。
 けれど、何とか今すぐ逃げ出したい衝動を押さえ込み、僕は二百年分の勇気に乗せて、声を振り絞った。
「そんなことしたら、君は一生後悔するぞ」
「はあ? なんで?」
「…………しいちゃんだよ」
 僕は、感じたことをそのまま舌に乗せた。
「この身体に入ってるの、しいちゃんの魂だ」
 声の質も違う。姿も違う。けれど何となく分かる。おどろおどろしい気配の中、耳に届いた微かな泣声。それが呼ぶのものを僕はすぐに理解した。
 ――兄ちゃん。
 先ほど感じた、しいちゃんへの違和感。その不安は確信へと変わる。
 黒翁は、あんな一瞬のような短時間のうちに、しいちゃんと身体を交換したのだ。
 たづさんのことが心配になる。黒翁はたづさんの身体の中から剣が生まれるのを知らない。だから彼女に危害を加える可能性だってあるのだ。しかし、今は元雅くんと話すのが先決だった。
「し、い……だって? これが?」
 元雅くんが瞠目する。
 僕で分かることが、彼に分からないはずがない。
 僕はその美しい切れ長の目を見返すと、訴えかける。
 束の間の沈黙。
 けれど。
「…………何を言い出すかと思えば」
 元雅くんは、ぷっと噴き出すと不遜な態度で僕を見下ろした。
「お前、馬鹿? それがしいだとして、僕が気付かないとかありえないから。しいと僕は、たった二人の兄妹なんだよ? しいを誰よりも愛してるのは、この僕だ。その僕が、しいを攻撃したとでもいうわけ? あり得ない。あり得ないよ」
「分からないの? 僕だって分かるのに、君に分からないの!?」
「……しつこいよ、お前」
 元雅くんが忌々しげに顔を歪める。
 彼に聞き入れる気配はない……僕は絶望した。猿彦は、気付いた時、悩んだのだ。たづさんを追うか、元雅くんを止めるか。そして、彼は元雅くんを止めた……彼が誤らないように。なのに、僕には止められないのか?
 打ち杖が突きつけられる。音を立てて紅の光が散る。邪魔立てするなら僕ごと消し去るつもりなのがよく分かる。
「雅兄!」
 と、しいちゃんの声に僕と元雅くんははっとして振り返った。
「しいちゃ……!?」
 庫裏の方からやってきた彼女の姿に――正確には、彼女の左手が引きずるものを見て、僕は息を飲む。
「な。敦盛? しいはいるだろ。この薄汚い子供がしいのはず、ないだろ」
 元雅くんが呪うように僕を見る。
「違う! よく見るんだ、元雅くん!」
「しい。危ないから、まだ少し下がってて。すぐに」
 気遣うように元雅くんが歩み寄るしいちゃんに微笑む。
「離れるんだ、元雅く――――」
「しい、ちゃん……?」
 そして、僕の警告は空しく風にかき消えた。麗しの顔が笑顔のまま固まる。
 元雅くんはのろのろと妹を見下ろした。
「…………未熟よの」
 しいちゃんは――しいちゃんの身体を乗っ取った黒翁は、驚愕する元雅くんを鼻で笑うと、彼の腹部へ突き立てた刀身を抜いた。
 弧を描いて朱が、しいちゃんの白い髪や肌に散る。
「元雅くん!」
 ぐらり、と元雅くんの身体が傾いだ。
「妹の霊魂すら見分けられぬか。それとも傷つけた事実を認めるのが嫌か。のう、元雅」
 地に膝をついた元雅くんを小気味良さそうに見やり、黒翁は鼻から息を吐く。
「ほっほ……貴様が殺そうとしたのは、紛う事なきお前の妹じゃ。さて、どうしたものかな。この女、どれだけ問いただしても、教えてくれなんだ……」
「たづさん!」
 そう言って、黒翁は左手で引きずっていたものを――ぐったりしたたづさんを前へと放った。
 黒翁は可憐な瞳を猿彦へと向け、にっと笑む。
「猿。さっさと杓文字を取れ。話してもらうぞ。剣の在処を」
 びりびりと近くにいる僕まで痺れるほどの威圧感。
 猿彦は黒翁から目を離さず、ヤスケを取りに走る。
 力なく倒れ込むたづさんの生死は、見るだけでは判別できない。けれど、人質としての価値を彼女に認めている以上、黒翁が今すぐに殺すとは思えなかった。
〔てめぇ、覚悟はできてんだろうな〕
「覚悟? さてはて、何に対する覚悟かの」
〔俺に、ぶちのめされるって覚悟だよ!〕
 ヤスケを取り戻した猿彦は柄でもって地を打った。地面が抉られ、砂が散る。
「できるのか? 貴様に」
 勝利の確信に赤い瞳を細めて、黒翁は首を傾げる。
「わらわのもとには、たづがおる。そして、元雅も元能も……貴様の〈顔〉もな。貴様が動けば直ちにこやつらのうち、どれかを壊してくれる」
 言いながら、彼女はちろりと赤い舌で短剣を舐めた。
「誰が良いかのぉ。初めからたづでは可哀想じゃから元雅にするかのぉ。こやつ、わらわを狗などとほざいたしのお」
 言って、彼女は元雅くんの一つに束ねた髪を掴んで顔を持ち上げた。
 しいちゃんだと気付けなかったのが相当衝撃的だったのだろう。迫る刃を見る瞳にはいつもの覇気がない。
〔…………やめろ〕
 わざとらしく刀身を元雅くんの首筋に当てた黒翁は、猿彦の制止の声に満足げに眉尻を下げた。
「思った以上に兄弟仲は良いと見える。殺すと息巻いておったのもじゃれ合いの延長か? えぇ? ……ま、なんにしても都合が良いわ」
 じっと伺うように猿彦を見つめて、彼女は睦言を囁くように艶やかな声で誘う。
「悪い話ではなかろ? わらわを解き放つとは、つまり、お主の顔が戻ることなのじゃ」
 猿彦は黙っている。
「今一度問うぞ。猿……剣は何処にある?」
 もちろん猿彦だって顔を取り戻したいに違いない。それでも黒翁の問いに応えられないのは――観世の家としての責任。
 僕は、知っている。
 猿彦が元雅くんに負けず劣らず、舞々であることに誇りを持っていたことを。
 だからその道を断たれた時、目も当てられないほど、自棄になったのだ。
 黒翁が猿彦の顔から自由になった場合、人的被害が出る確率は更に高くなる。それは、彼女という女神を使役する家として、監督する義務の放棄になる。たとえ若大夫となる資格がなくなろうとも、猿彦は自身の顔と家の義務を測りにかけた場合、迷いなく家を取る、生粋の舞々なのだ。
「わしも、心苦しいが……お主がそのようではいたしかたあるまい」
 黒翁は失望露わに顔を歪め、元雅くんの首筋に刃を押し当てた。
 観世の若大夫の命と、家の体面。
 迫られる二択に猿彦はぎゅ、と拳を作る。
〔剣は! ……剣は〕
 猿彦はじり、と一歩進めた。
「んん?」
〔剣は…………〕
「はよう、言わぬか。わしは、気が短いでな」
 猿彦の持つヤスケに、黒翁の神経が集中する。
 その隙を逃さず、元雅くんが黒翁の――しいちゃんの懐に手を突っ込んだ。面袋を引っつかむと思い切り放り投げる。
「元雅!? くっ……」
 それは高く放られると、山門の手前に落ちた。
「貴様、懲りぬかぁっ!!」
 黒翁が怒りに身体を震わせ、声を荒げる。しかし、元雅くんにとどめを刺すより彼女は面を優先した。
 たづさんを引きずりながら追う彼女の行く手を、猿彦がすかさず遮る。
「そこを退けッ!!」
 はっとして、黒翁は猿彦と……そして背後で、よろけながらも立ち上がった元雅くんを一瞥した。
 ぎり、と唇を噛む。怪我を負っているとは言え、舞々二人に挟み込まれて余裕を保っているほど黒翁にも余力はないようだった。
 けれど、彼女の元にはたづさんがいる。猿彦は……もちろん、手出しはできない。
 彼女はすぐさまそのことに気付くと、たづさんに刀をあてがいながら、じりじりと面へ歩み寄った。
 僕はすかさず黒式尉の面のもとへ走った。
「やっぱり……」
 拾い上げようと手を伸ばしたが、触れられない。
 当たり前だ。持ち霊にとっての(しち)でもある面。霊でも触れられる神器では用の半分も成さなくなってしまう。黒翁が儀式の折に持ち出せたのは、猿彦の顔があってのことなのだ。
 此処で面さえ取り上げることができれば、事態は好転するのに……僕は悔しげに唇を引き結ぶ。
「どけぃ、小童」
 黒翁が近づいて来る。
 ……触れられる身体がないことがこれほどまでに恨めしいとは!
「おやおや」
 と、門のすぐ近くで聞こえた声に、僕ははっと顔を上げた。
「夜食を届けに来たのが、運のつき、ですか。……まさか鉢合わせてしまうとは」
 のほほんとした声が落ちる。手に包みを持って現れたのは元重さんだった。
 彼は僕には気付かなかった。
 けれど、足元に転がる黒式尉の入っている面袋には気付いた。――目を瞠る。
 ……良かった。元重さんが拾ってくれれば、黒翁に渡ることはない。
 ほっと安堵したのも束の間。それを拾い上げた元重さんの表情が、す、と消えた。
 え……?
「元重……よくぞ参った。早う、わらわにそれを」
 黒翁は一瞥して元重さんを認めると、猿彦と元雅くんに目をやりながら空いた右手を伸ばし催促した。
 いかにも元重さんが手渡すことを、当たり前だというように。
「元重、さん?」
 疑問と疑いが交錯、僕は混乱するまま、元重さんの応えを息を詰めて待つ。
「お馬鹿さんですね、黒翁」
 元重さんは黒翁にだけ聞こえる声で囁くと、目を三日月型にして笑った。
「何………?」
 それに、黒翁の表情がスッと険しくなった。
 元重さんは彼女の様子など気にもかけず、手にした面袋の紐がきちんと結ばれているのを確認すると、口元をほころばせた。
「今、あなたにこれを手渡したとして、私に益がありますか?」
「何だと? 貴様、あのことが――――」
「えぇ、どうぞ。お話したければ御勝手に。ただ、貴女と私、弟たちはどちらを信じるでしょうか」
 そう言うやいなや、彼は右の袖を左で押さえると、腕を振り上げ猿彦に向かって面袋を投げた。
「きっさまあああああああっ!」
「猿彦! 黒翁を封じなさい!!」
 言われるまでもなかっただろう。猿彦がすかさず印を結ぶ。
「……くそ! せっかく外へ出られたというに!!」
 ばりっと彼女の手足を、緑の稲妻が走る。それを忌々しげに睨み付け、黒翁はたづさんを前へと付きだした。
「呪を止めよ! さもなくばこの女を殺す!!」
 ぴくり、と猿彦の指が止まった。
 見かねた元雅くんが彼を押しのけ、呪を紡ぐも、ヤスケに顔面を叩かれ蹲る。あああ、こんな時にも、この二人は!!
「猿彦!? 何を躊躇って……!」
 元重さんが柳眉を吊り上げた。
 家、家、家……観世の者にとってはまず第一に家だ。
 猿彦がまさか家よりも一人の女性を優先すると思わなかったのだろう。
 元重さんが信じられないものを見たかのように目を見開き、慌てる。
「……そうじゃ。大人しくしておれ。いいか、わらわはまた来よう。その時までに、剣を用意しておくのじゃ。でなくば、この女、引き裂き殺してやる」
 空間に穴が開き、深淵が覗く。
 闇がしいちゃんを――黒翁に憑依されたしいちゃんを抱くように捉えた。
 肌に黒い染みが浮かび上がったかと思うとずずず、と闇に同化していく。やがて白い髪が完全に飲み込まれると、もうそこには何の気配も無かった。
「このままでは済まさぬ。済まさぬぞ!」
 消える間際に吐き捨てられた声は、風に舞って天へと駆けた。

( 六ノ段 了 )