舞々花伝

黒翁襲来(5)

 なーんて。
 たづさんに謝りにいったのだろう相棒の背を、微笑ましい思いと共に見送った僕だったけれど……よくよく考えてみると、随分と蔑ろにされてる事実に気付き、ちょっとだけ、ふてくされた。
 面を木にくくりつけずとも、寺の境内くらいの範囲なら猿彦と一定の距離は取れる。
 にも関わらず、僕の大切な面を、無防備にも放置した猿彦は何を考えているのだろう? 僕はこれがなくなったら消えてしまうのに。
「いや絶対、何も考えてないよ……」
 がっくり頭を落とす。
 面が不安でその場から動けない僕は、仕方なしにお堂の階に座った。
 もう日も暮れて烏もいないから突かれて面が傷つくなんてことはないだろう。それでも蛾や羽虫が近づくだけで、はらはらとしてしまう。
「しっしっ。来るなよ、もう…………あれ? しいちゃん?」
 しばらくしてから、猿彦の消えた方角からしいちゃんがやって来るのが見えた。
「…………追い出された」
 僕のもとに来た彼女は、ぽつり、と告げた。
 食後、しいちゃんはたづさんといたのだろう。
 猿彦がどんな態度で妹を追い出したのか、様子がまざまざと想像できてしまって、僕は思わず噴き出した。しいちゃんがきょとんとする。
 猿彦はどんな顔で、たづさんの所へいったんだろう。今味わっている不満をちょっとでも良いから解消するためにも、その照れて真っ赤にしている顔を見て、気分を晴らしたい。……まぁ、その顔がないんだけど。
「敦盛さん」
 と、ちょこん、と僕の隣に腰を下ろした、しいちゃんが僕を呼んだ。
 彼女は膝を抱えて身体を縮めながら、俯いていた。その横顔にはどこか思い詰めるような色があるのに僕は気付く。
「どうしたの。何かあった?」
 訝しげに思って先を促せば、細い喉が鳴った。ややあってから、彼女はぽつんと告げた。
「しいなんだ。持ち出したの」
「へ? 持ち出した? 何を?」
 唐突な告白に僕は首を傾げる。
 しいちゃんは怯えたように僕を見上げ、それから意を決したというように懐に右手を突っ込んだ。
「…………これ」
 震える手が、引き抜いたのは錦の面袋だった。彼女は訝しげにする僕の前で、紐を開けて中身を取り出す。
「これは…………?」
 黒い肌をした翁の面だった。
 穏やかな雰囲気を醸し出す中央の大きな鼻と、への字型の目、その上には馬の白いたてがみが柔らかな直線の眉を描く。老いを示す額の三本の皺、左右の頬に彫られた渦、カタカタと動く切顎式の顎には白く長い髭が流れ落ちる。
 どこか剽軽で可愛らしく、それでいてしっとりとした薄気味悪さの横たわる面だった。
「これ……これって、まさか…………黒式尉の面?」
 黒翁を封じていたという面――実際に見たことはなかったけれど、そうとしか思えない。
「な、何で……だって、これは」
 黒式尉の面は、猿彦が失敗した儀式の折、黒翁と共に飛んでいってしまったのだと聞いている。それを、何故、しいちゃんが持っているのだろう。そもそも、持ち出すということは……
「何処で、手に入れたの。『持ち出した』って、まさか……やっぱり、観世にあったってこと?」
 面さえあれば、黒翁から顔を剥がす何らかの方法が試されていたはずだ。それなのに、猿彦があの姿のまま、何年も過ごしてきたのは、封じるための面を黒翁自身が持っていってしまったからだった。
 ふいに元重さんの言葉が思い起こされる。
――本当に、黒翁はこの五年間、どこにいたんでしょう。
 彼は言った。人的被害が出ていない様子から、儀式の後、飛んで行った黒翁は何者かに封じられていたのだろうと。けれど、それができるのは観世の座員だけだから、そんなことはありえない、とも。
「観世にあったなら、やっぱり誰かが故意に隠していた?」
 僕の独白にも、しいちゃんは何の反応も示さなかった。ひたすら表情を強ばらせて、黙っている。
「観世の座員の誰かが黒式尉の面を手にしたなら、猿彦に話が行くはずだ。なのに」
 ――噂話一つ持ち上がっていなかった。しかし、現に、黒翁は復活し、黒式尉の面は此処にある。
「まさか」
 僕ははっとしてしいちゃんを見た。
 半月前、彼女は朝方に屋敷を抜け出した。
 彼女は修行のためだと言ってはいたけれど、僕はあの時、彼女が『黒翁』と言うのをはっきりと聞いていたのだ。
 何故、黒翁が五年の沈黙を破り、突然現れるに到ったのか。彼女の行動が……その、答え?
「儀式の後、逃げ出した黒翁を、観世の誰かが封じていた。それを……しいちゃん、君が見つけて持ち出したんだね?」
 猿彦を助けるために。
 しいちゃんは躊躇いがちに、けれどはっきりと首を縦に振った。
「だって、あったから。あったから、しいは、たづさんのところに持って行こうと思って。彦兄のこと、助けたくて」
「君は……たづさんの能力を知ってたんだものね」
 僕らが出会う前から、お寺の手伝いに出入りしていたらしいしいちゃんが、猿彦の顔とたづさんの力を結びつけて考えるのは自然なことだ。
「じゃぁ、猿彦が君を助けに行った日に、黒翁は逃げ出してしまったんだね」
 きつく結んだ拳を膝に押しつけ、彼女は頷く。
「でも、どうして? どうして、お兄さんたちに何も言わずに持ち出したの? これが危ないものだって分かっていたでしょう?」
 しいちゃんは無茶をするような子じゃない。きちんと、何ができて、何ができないかを知っているのに。
「……なんとかなると、思った。しいも、舞々だもの」
 嘘だ、と僕は気付いてしまった。
 疑いたくはない。けれど、多分……彼女には言えない事情があったのだろう。猿彦にも、元雅くんにも、元重さんにも告げず、屋敷を抜け出さねばならなかった理由が。
「彦兄の顔が戻れば、みんな……みんな、元通りになるんじゃないかって」
 決して甘えず、兄たちを見習おうと健気に頑張る姿を見ていると、ついつい彼女に年齢以上のことを望んでしまう。でも、彼女はまだ十歳。いがみ合う兄たちを見て、心穏やかではいられなかったのだろう。
「……君は『持ち出した』って言ったね」
 僕は胸の痛みに顔を顰めつつ、確信を得るために言葉を紡ぐ。
「――――黒式尉の面を隠していたのは……元雅くんなの?」
 毒を塗ったのも。そんな疑いを含めて。
「ち、違うッ!!」
「しいちゃん……」
 違うなら、きっとここまで動揺しない。
 彼女が誰にも言わず屋敷を抜け出した理由――――それは元雅くんを庇うためだ。
 もし猿彦に言えば、誰が面を隠していたかきつく問い詰められただろう。元雅くんに話せば、猿彦が顔を取り戻すかもしれない彼女の行動は阻まれる可能性が高い。何の力のない元重さんに言うのは、単に心配をかけるだけだ。
 だから、彼女は言えなかった。誰にも言わずにこっそりたづさんに魂を分離して貰おうと思ったのだ。元雅くんがしでかしたことが明らかになれば、彼は若大夫の地位を追われ、観世の者として生きることすらできなくなってしまう。そして、家の中は――とりわけ、兄弟間は今以上に混乱するに違いない。
「雅兄は悪くない!! 兄ちゃんはずっと、母上に責められ続けてきた。『嫡男なのに、何故力がないんだ、役立たず』って、ずっとずっとずっとずっと……!! でも、兄ちゃん、努力してた。頑張ってきた。母上が認めてくれるように、母上の期待を裏切らないように……なのに」
 彼女の言いたいことは分かる。
 元雅くんにそうさせたのは……周囲の環境だ。
「みんな、酷い。雅兄が大夫になれなきゃ、役立たずって馬鹿にして、いざ雅兄が継げば白い目で兄ちゃんを見る! 大夫が欲しいがために彦兄を殺そうとしたって! みんなそう思ってる!! しいは知ってる!!」
 叫んで、彼女は立ち上がった。涙の浮かんだ目にきっと睨まれて、僕は何も言えなくなってしまう。
「でも! でも、雅兄じゃない。雅兄はそんなことしない。しない……絶対にしないよ。しない、しないしないっ!!」
 それは確信というより、祈りのようで、僕は胸が締め付けられた。
「しいちゃん……」
「しいは、誰が毒を塗ったかなんて知らない。知らない! ただ、ただ、面があったから、たづさんなら彦兄を助けられるから、だから、だから、しいは持ち出して――」
 突然、しいちゃんは口を閉ざした。僕の背後を見やり、気まずそうに俯く。
「敦盛とはよく話すんだね。ちょっと兄ちゃん妬けちゃうな」
「に、兄ちゃん……」
 振り返ると、元雅くんが悠然と、庫裏の方から歩いてきた。
「そっか。しいちゃんだったのか。僕の部屋から黒式尉持ち出したの」
 彼はすんなりと面を保管していたのが誰かを認めて、肩を竦めた。
「あはは。重兄かと思ってたら、違うんだ。疑って悪い事しちゃったなぁ」
 言って、僕に向けられた麗しい顔には、はっきりと酷薄な影が滲んでいた。
「元、雅くん……」
 彼は僕としいちゃんの間をつっきると、面のぶらさがった木の元まで歩いた。それから、目を瞠る僕を、彼は楽しげに見やり、つ、と面へと手を伸ばした。びくり、と僕の全身が跳ねる。
 そんな僕に、片目を器用に細めた元雅くんは、侮蔑を込めた視線を向けた。
「で? 敦盛はそれを聞き出してどうするつもりだったの」
 吐息の音さえ響くような、恐ろしい静寂……僕は思わず、一歩退く。
「彦兄に言う? でも言ってどうなるの? お前、どうしたかったわけ?」
「ぼ、僕は……」
 彼の言う通りだ。
 真実を知って、僕はどうするつもりだったんだろう。必死に涙を堪えて否定するしいちゃんを見て、どうするつもりだったんだろう?
「まさか、しいのこと困らせたかった、なんて言わないよね? だったら……消すよ」
「違う。僕はしいちゃんが一人で背負ってはならないと思ったから――」
 すっと取り出される打ち杖に、冷たい光が宿る。殺気。元雅くんは本気だった。
「思ったから、何だよ。家の事に部外者が口を出すな」
「部外者じゃない。僕だって君たちの事を考えてる」
「だったら放っておけばいい!」
 そう言って、怒鳴った彼の面差しに、僕は苛立ちというよりも、焦り、恐怖の感情を読みとった。そんな彼の弱気な側面を僕は初めて見たから、少なからず戸惑う。
「に、兄ちゃん!」
 元雅くんが静かに杖の先を木にぶら下がる僕の面へ向けた。しいちゃんが慌てて制止の声をあげる。――と、その時だった。
「も、元雅くん……?」
 彼は山門の方を見て、目を細めた。
 僕もつられてそちらを見やる。しいちゃんが振り返る。
 ……門をくぐる者があった。
 その少女が一歩寺院へと踏み出した途端、ばりっと龍の鳴き声にも似た、雷鳴が走る。
「…………はあ。本当、あいつは邪魔しかしないんだから」
「黒翁?」
 年の頃は十ほどだろうか。しいちゃんにほど近い背丈の女児が境内を突っ切ってくる。
 その背には巨大な黒い霧。一目みて、人外の者が憑いていると分かる、禍々しさを放っていた。
「兄ちゃ……」
「大丈夫だよ、しいちゃん」
 怯えて腰元に身体をすり寄せた妹の頭に手を置いて、元雅くんは口の端を持ち上げた。
「僕が観世の大夫だ。アレの主人なんだ」
 それからやれやれと肩を回すと、僕に背を向ける。
「あんたは、ここで大人しくしてなよ。彦兄呼ばれても、邪魔だしさ」
 肩越しにそう告げて、打ち杖で面を叩くような真似をする。
「う……」
 本気でないと分かっているのにびくりと反応してしまう僕を、彼は、それはそれは小気味良さそうな笑みでもって見遣ってから、黒翁に身体を向けた。
 憑依された少女は元雅くんを視界に捉えると――――カッと歯を剥いた。