舞々花伝

黒翁襲来(3)

 庫裏の一室に布団を敷き、そこにたづさんを横たえると、早速しいちゃんが水桶と手拭いを持って来てくれた。
 僕はたづさんの枕元に座すと、心配げに彼女の面を覗き込んだ。……目覚める気配はない。
「熱射病ですかね」
 汗ばんだ肌に、渇いた唇。朝から休憩もなく働き通しだったのを思い出して僕は顔を顰めた。
 いくら彼女が四百年も前に亡くなった人だといったって、今、憑依している身体は一般人と変らない。無理をすれば疲れるし、病気にかかる。最悪死ぬことだってありえるのだ。……その度に身体を替えればいいだけだけど、そんな、人を乗り捨てるようなことをたづさんがするとは思えないし。
「……猿彦?」
 隣で壁に寄り掛り黙ったままの相棒を見れば、彼は抱いたヤスケをくるりと裏返した。
〔…………魂の限界だろ〕
 柱に背を預け、庭を眺めていた元雅くんも猿彦の声を読み、続ける。
「四百年だからね。……普通、人間は六十から八十で寿命を迎える。それは魂が必要とする休息時期に入ったって事だから」
 僕はぎくりとした。
 人は死んであの世へと渡る。そして、しばらく休んで新たな身体を得て生まれ変わる……そうやって命は永遠に近い間、循環する。だけど。
「気息の穴を穿たれると、休めなくなる。何故なら身体を失っても、魂だけで此岸へ留まり続け彼岸へは渡れないから。だから魂が滅びるまで活動し続けなきゃならない。つまり……彼女の魂は寿命を迎えてるんだよ」
〔ただでさえ憑依には力がいるんだ。こいつ、生前よりも魂の体積も増えたっつってたろ? 余計な脂肪がついたら、移動するのに疲れんのは辺り前だ。それと一緒〕
「なら、たづさんは……」
〔この身体が寿命を迎えて、死んだとして……もう、憑依する力は残ってないだろ〕
 猿彦の言葉に、元雅くんが頷いた。
「それどころか、このまま能力を使い続ければ身体が死ぬ前に魂の方が消滅するだろうね」
 両者が冷静に示す事実に、僕は息を飲む。
「そっか……」
 ふいに布団に横たわるたづさんが口を開いた。額に乗せられた手拭いを取り、ゆっくりと身体を起こす。
「たづさん」
 僕は何と声をかけるべきか悩んで、結局口を噤んだ。たづさんはそんな僕の様子に、気にしないでと笑った。
「いつか来ることだし。覚悟はしてたんだけど……突然だわね」
 明日の天気を口にするような軽い調子で彼女は言う。それから、湿った空気を打ち破るように上半身をうん、と伸ばすと肩を回した。
「あー! 寝たら、ちょとスッキリした! ん? もう、こんな時間じゃない!! すぐに夕餉の支度するから……」
 布団をはいで起き上がろうとする彼女を、僕は慌てて押しとどめる。
「しいちゃんがやってくれてます。たづさんは寝ててください」
「……あなたたち、あんな小さい子に任せて、良心が痛まないの」
 半眼で呆れ返るたづさんに、猿彦が言う。
〔何かあった時、対処できるのはアイツじゃねぇ。それはしいも分かってる〕
「だからって……」
 なお言い募ろうとしたたづさんだったが、やはり本調子じゃないのだろう。額を押えると束の間、顔を顰めた。
「たづさん……」
「なぁに?」
 僕は猿彦とたづさんを見比べてから、おずおずと口を開く。
「……猿彦は、あの、こんな性格なので分かりづらいとは思うんですけど……貴女の事、心配してるんです」
「へ?」
〔はあ!?〕
 ぽかんとするたづさんの隣で、猿彦がバッと壁から身体を離した。
〔誰が心配だなんて言った!?〕
「心配でしょ? 力を使ったら、今度こそ魂ごと消滅しちゃうんだ。身体が死んだら、ハイ、交換、ってわけにはいかないんだよ。……もう二度と会えないんだ」
 僕の言葉に、猿彦は身体を震わせていたが、ぷい、とそっぽを向いた。
〔た、確かに、な〕
 それからがしがし頭をかくと、うんと唸った。
〔確かに、この女が今消えちまったら俺の顔は戻らねぇし、そういう意味では……本当にそういう意味だけでは、心配しているとも言えなくもない。ない、が〕
 それから慌てたように付け加えた。
〔ああ、そうだ。そういう意味では、だ。だが、間違えるなよ。今は利用価値があるから、だから、仕方無く心配してるんだ。仕方無く。じゃなけりゃ、誰がこんな女……か、勘違いすんなよ、バーカ〕
 怒濤の速さで文字が流れては消える。
 面倒臭い奴。一言、素直に心配だって言えばいいだけなのに。せめて最初の一言で終わっていたら……。これじゃ、たづさんの性格だもの「余計なお世話よ!」なーんてますます険悪になるに違いないじゃないか。……と、思っていたのだけど。
「…………ありがとう」
 たづさんは殊勝に微笑むと言った。
 猿彦の、未だにぶつくさ文句を垂れるヤスケが黙る。
〔だから勘違いすんなと――〕
「だけど、いいのよ」
 けれど、続くたづさんの言葉は、やんわりとした拒絶だった。
「あたし、十分生きたわ。それに弁えてるの。あたしはもう四百年も前に死んでる。覚悟はしてた、って言ったでしょ? だから、後は突っ走るだけなの」
 強く真っ直ぐな瞳。
 その目は、彼女がもう、この世に何の未練もないことを、はっきりと伝えていた。
「だ、だけど……」
 僕は慌てた。
 違うんです、たづさん。そうじゃなくて、と真実を言いそうになるのをぐっと堪えて、僕は言葉を探す。
「いだいっ!」
 と、ヤスケが僕の脳天に振り下ろされた。
〔やめろやめろ〕
 痛みに蹲りながら、僕は相棒を恨めしげに見る。
 立ち上がった猿彦は空恐ろしい目つきで僕に黙るよう命ずると、言った。
〔老い先短いご老体に、あれやるなこれやるな、っていう方が酷ってもんだ〕
「ご老体って、何よ。まさかあたしの事……?」
〔お前以外に誰がいるんだよ? え? おばーさ……〕
 たづさんが濡布巾を投げる。それを軽々片手で受け取った猿彦の顔に、ごんっ! と、木製の枕が直撃した。……布巾はおとりだったようだ。
「最っ低!」
〔て、んめ……〕
 痛みに蹲った猿彦は、肩を震わせて吠えた。
〔てめぇみてぇな暴力女、さっさとくたばっちまえ!〕
 ヤスケを置き、面を外して傷がついていないのを確認すると、彼は面をかけ直し、そっぽを向いた。
 たづさんも怒りに充ち満ちた表情で猿彦を睨み付けてから、ぷい、と顔を逸らす。
 …………あーあ。
「御夕食できたよ」
 そこに時期を見計らったように、しいちゃんが顔を出した。室を覗き込んだ不安に翳った顔が、起き上がるたづさんを見つけて、ぱっと輝く。
「たづさん…………起きて、平気なの?」
「うん。ありがとう。もう、大丈夫よ」
「良かった」
 深く頷くたづさんに、しいちゃんは小走りで近づくと抱きついた。
〔くそ……〕
 床に倒れた大杓文字が、そう舌打ちするのを、僕は何とも言えない表情で見ているしかない。