舞々花伝

壊す理由、救う理由(5)

 身体を維持するための食事を取り入れる口は、魂を維持するための呼吸をする場所として〈気息の穴〉と呼ばれている。
 猿彦には顔がない。だからもちろん口――気息の穴もない。
 食事は僕が憑依して摂取するとして……呼吸は常時していないと魂は淀み、腐り、最終的には人に害なす死霊・怨霊と化してしまう。
 だから、猿彦には特殊な呪が施され、彼の気息の穴は元重さんに繋げられている――元重さんの呼吸がそのまま、猿彦の呼吸となっているのだ。これが、猿彦が唯一元重さんにだけ懐き、信頼を寄せる理由だった。
 気息の穴を繋げるということは、二人分の呼吸を行わなくてはならないということ。聞いたところに寄れば、それはかなりの重労働らしい。しかし、よくよく考えれば当り前のことではある。人の命を二つ、維持しようというのだから。
 そして、その呪は、元重さんの血で背に書かれているため、水に弱かった。
 お寺に戻るとすぐにたづさんは観世家に使いを出した。
 けれど、それが観世家につく前に、元重さんが馬を駆って飛んで来た。呪が途切れたのに気付いたのだ。
「すいません、お忙しいところ。元重さ――」
 到着した元重さんを出迎えたたづさんは、彼の姿を一目見て恐縮した。
 接待の途中で座を抜け出して来たのだろう。彼は、
「事情を説明したら、義円殿は快く暇をくださったよ」
 と、にこやかに言ったけれど、〈快く〉と言う割には右目の下と、唇の端の、こさえたばかりの痣が痛々しかった。
 天台三門跡の一つ、青蓮院。華頂山麓に位置し、知恩院に北隣するその門跡寺院は、ここ泣地蔵寺からそう遠くない。そして元重さんを後援するそこの僧、義円殿は性格に一癖も二癖もある御人だった。現将軍義持の弟であり、次の天台座主と目される彼の傲慢不遜な性質は、かねがね噂で耳にするところだ。とりわけ元重さんへの執着は凄まじく、病だろうが、他に仕事があろうが、家族が死のうが……自分を第一に優先させねば気が済まない。そんなわけで、彼の青痣はいつものこと。元重さんの性癖上、同情するのもおかしな話だったが、たづさんのように、彼を余り知らない人からしたら、怪我だらけの姿に自分を責めてしまうのは無理なからぬことだ。
〔死ぬと思ったぞ、このトサカオンナ〕
 元重さんが呪を描き直すと、猿彦はほどなくして目を覚ました。
「………………ご、ごめんなさい」
 上半身を起こした猿彦の枕元に膝を進めて、殊勝な態度でたづさんが頭を下げる。
 猿彦はヤスケを引き寄せると、たづさんを覗き込んだ。
〔あ? 聞こえねぇな。もっと大きい声で〕
「ご、ごめ…………」
〔んん? 何だって?〕
 わざとらしく耳に片手を当てて詰め寄る。
「ご…………」
 たづさんが涙目になった。それを楽しげに見つめる猿面。
「ごめん、って言ってんじゃないのよーっ!!」
 猿彦の腹部に拳がねじ込まれたのは言うまでもない。……たづさんは顔を覆って、室を出て行ってしまった。
「しかし……本当に大した事がなくて良かったですよ。猿彦との繋がりが消えた時は、ひやっとしちゃいました。近くに敦盛くんがいるとは分かってはいても……やはり、心配で」
 痛みに蹲る猿彦の足元に座していた元重さんが、濡れた手拭いを怪我に当てながらのほほんと言う。ついで不思議そうに、布団を挟んだ向側に座る弟妹を見やった。
「そういえば、君たち、家に帰っていないようですね。どうしてこちらへ?」
「黒翁の気配を追って来たんだよ。ねぇ、しいちゃん」
 元雅くんの返答に、元重さんはちょっとだけ目を見開いた。
「黒翁? 今更、あれが現れたのですか?」
「彦兄の顔が邪魔だったんだろ」
「ですが、五年ぶりですよ? その間、何をしていたのか……確かなんですね、まーくん」
「この目で見たし、やりあった。本物だった」
 元雅くんが清々とした声で答え、はっきりと頷く。元重さんは顎を撫でて、うん、と唸った。
「……そうですか。それで黒式尉の面は」
「まだ見つかってない。何処にあるのかも、分からない。――意外と近くにある気がしなくもないけど」
 意味ありげな言葉に、元重さんが目を細める。猿彦の介抱をしていたしいちゃんがふいにその手を止めると、唇を噛み俯いた。
 何だろう。みんな、何かを隠している?
〔おい、バカマサ。何か、隠してねーか〕
 猿彦が出し抜けにそう問えば、元雅くんは兄を振り返り、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「隠してないよ。まぁ、隠してても言わないけど」
〔てめぇ……〕
 猿彦が身体を起こす前に、元雅くんは立ち上がると、静かな足取りで、けれど全身から苛立たしさを発しながら、猿彦へ近づいた。
「っていうかさ」
 元雅くんは、せせら笑うようにして口を開き、しいちゃんを押しのけ、中途半端に立ちかけた義兄の首元に、抜き放った打ち杖を突きつけた。
「まーくん、一体何を……」
 元重さんが慌てるのを無視して、元雅くんは猿彦を睨んだ。
「顔を取り戻す? はっ! 何も見えてない奴の言い草だよね。いいんだよ、あんたには顔なんてなくても。言ったじゃん。『今』が一番いいんだ、って。……そうでしょ、重兄?」
 元重さんが、一瞬息を詰まらせる。
「彦兄。よく考えてみなよ。今が一番うまく回ってるんだ。彦兄は顔を失い、重兄は力を失い、実質的に大夫を継げるのは僕一人。何の争いもない。最高の今だ。……僕にとって、だけど」
〔………てめぇ、なのか?〕
 手に裂傷を負うのも構わず、猿彦は杖を右手で掴んで退けた。
〔てめぇが、毒を盛ったのか!?〕
 問いと共に、左手に持ったヤスケの柄で板敷を打つ。
「はあ? 違うよ。僕じゃない」
 否定しながらも、元雅くんは唇の端を吊り上げた。ヤスケを握る猿彦の手に、血管が浮かび上がる。
〔黒翁がゲロったら――てめぇがやった、って証拠が出たら、絶対に殺してやる。殺してやるからな〕
 やがて、背後に怒気を漲らせて猿彦は言うと、杖を掴んだ手を離し、元雅くんを押しやった。
 あぐらをかき、彼は貧乏揺すりをしながら右耳を弄り始める。暴れ出したい衝動を何とか抑えようとする時の、猿彦のくせだ。一方、僕は初めて聞くことに眉を寄せた。
「毒? 証拠? 一体何の話を――?」
「ああ、敦盛は知らないんだっけ。彦兄が儀式に失敗したのは、黒式尉の面の裏に毒が塗られてたからなんだよ」
 元雅くんが袴の皺を伸ばしながら、姿勢を正して座ると答えてくれた。ちらり、と猿彦を一瞥し、彼は続ける。
「って言っても、殺傷力はほとんどなし。意識が遠くなって、深い眠りを誘う、どちらかと言えば、薬に近いものだったんだけど…………ねえ?」
 命掛けの儀式だ。途中でそんなものを嗅げば、身体などすぐに乗っ取られてしまう……明らかな殺意だった。
「僕は同情なんてしない。そうなった原因は、あんたにあったんだから」
 元雅くんの斬り捨てるような鋭い言葉に、猿彦は鬱陶しげに首を振った。
〔俺に? 馬鹿言うな。他人のやっかみまで面倒見切れねーよ〕
「そうやって被害者面して、周りを威圧し続ける。僕はあんたのそういう傲慢なところが大嫌いだ」
〔俺もてめぇの僻み体質が大嫌いだ〕
 ぶん、と振られた杓文字が空を切る。切っ先は真っ直ぐと元雅くんに向けられた。
〔いざとなったら環境のせいにする。生まれも運も何もかんも引っくるめて、力だろ。んで、その力が全てだ。てめぇが嫡男のくせに、俺に劣ってたのは単なる運だ。恨むんなら自分の運の無さを恨みやがれ〕
「傷ついた獣はよく吠えるとはこの事だよね。っていうかその言葉、そのままあんたに返すよ。毒を盛られて、大夫の座を追われたのも、運だ」
〔…………っ〕
 怒りで、猿彦の全身の毛が逆立った。
「ま、でも、あんたの気持ちも分らなくもないよ? 悲しいよねぇ? あんだけ媚びへつらってきた座員たちに掌返されたように疎まれて……それまでのあんたの態度が悪かったとは言え、薄情だよねぇ?」
〔……てめぇ〕
 正に一触即発の時。
「おやめなさい」
 凜、とした元重さんの声が険悪な空気を見事に打ち破った。
「……元雅。言葉を慎みなさい。今、やるべきことは、いがみ合いではないでしょう。それに……猿彦。元雅だと頭から決めつけてはいけません」
 いつもの柔らかな雰囲気の瞳は、今、厳しげに二人の兄弟に訴えかける。
〔重兄は……バカマサじゃないっていうのか〕
「ええ。まーくんではありません。彼がそのようなことをするはずがありません」
 猿彦の問いに元重さんは目元を和らげると深く頷いた。
「……重兄は彦兄に顔が戻って貰いたいの? こいつは父さんのお気に入りだ。戻れば必ず大夫に推される」
「兄として、戻って欲しいと思っています」
 元雅くんの問いに、彼は至極真面目に頷いた。けれど、
「兄じゃなくて、観世三郎元重としては?」
 続いた問いに、色を失った。
 観世三郎元重……この通称〈三郎〉は観世家にとって、特別な意味がある。
 彼らの祖父・観阿弥さんの本名は観世三郎清次、父・元清さんは観世三郎元清がそれぞれの本名だ。そして念頭におかねばならないのは、元清さんは三男ではないこと。それなのに三郎と名乗る理由は、父から継いだ大切な名だからだ。つまり〈三郎〉とは観世座の大夫、一門の総領を表わす代々の観世大夫の通し名だった。
「………………そ、れは」
 元重さんがごくり、と喉をならす。
 元雅くんは問う……兄としてではなく、父から『後継者』の名を賜った者として、それなのにもう若大夫にはなりえない者として、好敵手が地位に返り咲いても良いのか、と。
 沈黙が降る。猿彦は兄から目線を逸らすと、肩を竦めた。
 と、元雅くんは話を斬り上げるように立ち上がった。
「馬鹿なこと聞いたよ、ごめん。あんたの五年を見れば、答えは出てるのにね」
 美しい切れ長の目を細めて、俯いたままの元重さんを見下ろす。やがて、鼻で息を吐くと歩み出した。退室の直前、彼は振り返ると猿彦を見た。
「ま、いいや。僕は彦兄の顔ごと黒翁を破壊するだけ。あ! そうだ。ついでだから、余計なこと言い出す前に、始末しちゃおう。そしたら……犯人も分からず終いだし?」
〔させるかよ!!〕
 近くにあった手桶を猿彦が投げつける。それを軽い身のこなしで避けると、元雅くんは行ってしまった。
 苛立たしげに猿彦が身体を揺する衣服のこすれる音……後に残された僕らの間には気まずい空気が漂っていた。
 確かに、元雅くんが毒を塗ったとしても不思議はない。その罪は絶対に認められないけれど、それだけのことをさせてしまう酷い扱いを彼はされてきたのだ。母の寿椿さんには嫡男のくせになぜ、と責められ続けてきただろうし、内弟子たちも彼を馬鹿にしていたと聞く。彼が凶行に走ってしまう環境は整っていた。
 けれど……。
 僕は元雅くんの怜悧さ思い出して首を振った。そんなことをすれば真っ先に疑われるのは彼自身だ。それが分からない彼ではない。
〔あのくそバカマサ……絶対に尻尾捕まえて、謝るまで殺す。泣いたって殺す!!〕
 猿彦がいらいらとしょうもないことを呟けば、しいちゃんが顔を曇らせた。
「……彦兄は、顔が戻っても許してあげないの」
〔許す、だぁ? 俺の頭ン中にそんな単語はねーよ。お前、馬鹿か〕
 問いに、猿面がギロリと妹を見下ろした。
〔顔を失って、俺は舞々ですらなくなった。大夫に選ばれたこの俺がだぞ? 一度でも俺様の人生断ち切りやがったんだ。顔が戻ったからって許してやるかよ。犯人の人生は、即座にきっちり俺が断ち切ってやる〕
「…………でも」
〔過去は消えねぇ。俺が受けた屈辱も、感じた怒りも、だ。顔が戻ったって……。俺は、ぜってー許さん」
 頑なな怒りを露わにする兄に、しいちゃんはついに押し黙った。
「……本当に、黒翁はこの五年間、どこにいたんでしょう。人的被害が出ていない様子だと封じられていた、と考えるのが妥当なのですが」
 きつく拳を握って項垂れる妹を眺めながら元重さんが首を傾げる。
「でも、あれは観世の神。封じれるのも解除できるのも……観世の座員だけですしね」
 探るように妹を見た彼の瞳が、沈鬱に翳った……僕はそんな気がした。
〔簡単だろ? つまり儀式の後にヤツを封じ、尚且つそれを隠していた野郎は家にいる。んで、そいつが――俺に毒を塗った犯人だ〕
 猿彦ははっきりと宣言した。
 ……しいちゃんが隣で大きく震えた。

( 五ノ段 了 )