舞々花伝

壊す理由、救う理由(4)

〔…………トリオンナは?〕
 帰り道。気が触れたように気落ちした父親が間違いを起こさぬようにと彼の面倒を見ていた猿彦が、合流した。どうやらそちらは一旦、落ち着いたらしい。
 僕は無言で、鴨川の東岸で川面を見つめるたづさんを目で示す。膝を抱えて座る彼女の頬には涙の跡が見えた。
 ……子供は救えなかった。
 彼女の〈魂切りの剣〉が使えなかったのだ。どうしようもないのは、あの場にいた誰もが分かっていた。子供の父親ですら、たづさんを責めたりしなかった。
 彼女も取り乱すことなく、すぐに住職さんに文を出して、今日の夜にはお経を読んで貰えるようかけあったりなど、てきぱきと少年が恙なく彼岸へと渡れるように動いた。次に運ばれて来た人の除霊だって受けた。
 ……だからといって、彼女が落ち込まないはずはない。
 すぐ側にいるにも関わらず、かけるべき言葉が見つからなくて、僕はただ、悲しみに沈む彼女の横顔を見守ることしかできなかった。
 が、猿彦はそうは思わなかったらしい。
 身体の筋肉を解すように肩を回しながら、ずかずかと彼女に歩みよると、無遠慮にヤスケの柄でたづさんの頭を背後から小突いた。
「ちょ、猿彦!」
 僕の制止の声など聞きもしない。
〔おーい〕
「…………何よ」
〔なんだ? 泣いてんのか〕
 覗き込んだ彼は、身体を揺らして笑い……ついで脛を抱えて飛び跳ねた。
「蹴っ飛ばすわよ」
 たづさん。もう、蹴ってます。


 何となしに邪魔になるような気がして、僕は少しだけ距離を取るように橋の柱に背を預けると二人を見守った。
〔……何だってお前、憑依し続ける?〕
 しばらく無言で川面を見つめていた猿彦は、そんな問いを口にした。
 初めて会った時から、思っていた疑問だ。
 猿彦の言う通り、他人の身体を乗っ取り、人助けでは矛盾している。彼女はかれこれ四百年は生きていると言っていたけど、それは……単純に寿命を五十で数えても、最低、八人の未来を奪ったと言えるのだ。何故、彼女は誰かの命と引き替えに、自分から憑依し続け、生きながらえるのだろう?
「一応、死にかけてる人の身体は選んでるんだけどね。……って、人殺しには変わりないけど」
 たづさんは寂しげに笑う。
「何故……そうね、死ねないからっていうのは答えになるかしら?」
〔死ねない?〕
「うん。特殊なこの能力のせいで、気息の穴を穿たれたの。だから、こんな風になっても彷徨い続けてる」
「気息の、穴……?」
 思わず、僕は柱から上半身を起こしていた。
 ――人は口という器官を媒介に、身体を維持する〈食事〉と、魂を維持する〈呼吸〉をする。
 生き物は死ぬと、もちろん食事も呼吸もできなくなる。食事をしなければ、身体は維持できずに腐る。魂もそれと同じで、呼吸をしないと腐り……行き着く先は人に害なす死霊や怨霊だ。
 気息の穴は、魂に呼吸の穴を開けることで、それは魂を永遠に近い時間、清らかに保つ方法だった。けれど、穴を穿たれたが最期、魂が果てるまで死ねなくなる。
 その辛さは、僕にも分かった。僕も同じく、気息の穴を穿たれていたからだ。
 ……僕は、自分が死んだ時のことは覚えてはいない。そして、死んだ後のことも。けれど猿彦の話によれば、怨霊化して人様に迷惑をかけていたらしい。そこを猿彦に捕らえられ、舞々に協力する霊として(おもて)をよすがに生まれ変わった。
 僕はすでに死んでいる。だから身体はない。呼吸をする口だって、ない。だから――気息の穴が必要だった。
 魂を清らかに保つために。でなければ、再び人を傷つけてしまう。
 僕は死ねない。
 魂が朽ちるまで観世に仕え続ける。それが、〈持ち霊〉となること……
 猿彦はもう、前のようにたづさんを「人殺し」とは言わなかった。
〔四百年間、ずっと、今みたいに生きてんのか〕
 たっぷりと間があって、猿彦は訊いた。
「……まあね」
〔いちいち落ち込んで?〕
「何よ。文句ある?」
 睨め付けてくるたづさんを見ないようにして、彼女の隣に腰を下ろすと、彼はややあってから問いを重ねる。
〔……疲れねーか?〕
 たづさんは、ぎゅ、と膝を抱える手に力を込め、鴨川の水面に錆びたような色を漂わせる夕日を眺めた。
 昨日も、お寺で一人亡くなった。
 除霊は成功したものの、重い病を移された後だったのだ。薬湯などを買ったり、医者に診せたりするお金も無かったし、それができたとしても手遅れだった。
 たづさんは物言わず葬儀の支度をした。それはとても手慣れたもので、彼女の生きて来た四百年が垣間見えた。
 彼女はずっとそうして来たのだ。長い間、そうして、多くの死を見てきたのだ。
「……仕方ないじゃない。救えなければ、悲しいもの。人が死ぬのは……悲しいもの」
 ぽつり、とたづさんが言う。猿彦も面を川面に向けたまま、言った。
〔馬鹿な奴〕
「馬鹿だもん」
 たづさんが浮かび上がった文字を一瞥して、頬をぷっと膨らませる。
〔………お前さ、何で守ろうとする? お前が今救ってやったとして、『死』が無くなるわけじゃねぇ。ぶっちゃけ、お前がやってることは無駄だ〕
「そうかしら? あなた、そんな風に生きてて、きつくならない?」
〔は?〕
 逆に問われて、猿彦は戸惑った様子でたづさんを見た。
「あなたの言い方だと……あたしもあなたも、敦盛くんも、無駄だってことになるわよね。っていうか、この世の全てが無駄」
〔その通りじゃねーか〕
 猿彦の応えに、たづさんは苦笑を漏らす。
「それって極論。悟ってる振りして、何も見てないのと一緒だと思う」
 それから真摯な眼差しでもって猿彦を見た。
「あたしたちは存在してる。此処に、いる。それを『無駄』の一言で片付けてしまうつもり? 明日は来るのよ。……無駄だと思いながら、毎日生きるのって、辛くはないかしら」
 彼女の泣きはらした瞳は、多くの悲しみを見てきてなお、希望を失っていなかった。
「無駄なことなんて一つもない。だから、未来へ続く道を探し続けなきゃいけない。あなたの言う無駄――行き止まりを避けてね。それが、此処にいる者の義務なんだと思う。……って、あたしは自分に言い聞かせてる」
 彼女は身体を揺すって少しだけ寂しい笑みを浮かべると、小袖についた泥を叩いて立ち上がった。
「あなたが合ってるかもしれないわ。ただ、あたしはそんな風には生きられない。それこそ自分の存在を否定しちゃったら、あたしはただの人殺しになっちゃうし……」
 ぴん、と姿勢を伸ばし、たづさんは続ける。その真っ直ぐ立つ姿を、僕はとても美しいと思った。
「あたしがしてることは、明日へと続いていく。そうやって思うから、今、ここにいられるの。弱いのよ、あたし」
〔お前…………〕
 猿彦は何か言おうとして、言葉を探したまま黙り込む。その横で、たづさんが自身の両頬を音をたてて手のひらで叩いた。
「うっし。落ち込み終了!」
 言って、くるりと踵を返し土手に足をかける。
「しっかりしなくちゃ! さ、帰るわよ。おサル、敦盛くん」
「あ、は、はい」
〔ちょ……待てよ〕
 呼ばれた僕が二人に駆け寄ろうとしたその時、猿彦が土手に登りかけていたたづさんの腕を取った。
「ん? 何?」
 振り返るたづさんは、いつもと変わらない。でも、その心の内も同じとは限らない。
 猿彦は束の間俯いていたが、顔を上げるとヤスケを前に付きだした。
〔休みたきゃ休め〕
 たづさんが目を瞬かせてヤスケに浮かんだ文字を読んだ。
〔別に、誰もお前を責めたりしない〕
「……あ」
 ぽろり、と、たづさんの双眸から大粒の涙が零れた。
 ぽろぽろぽろぽろ。
 自分の涙に呆然としたたづさんは、慌てて袖で目元を拭った。でも、止まらない。ついに彼女は顔を背けた。
 猿彦は――思わず、と言った様子で、その手を引き寄せた。
 はっとして顔を上げたたづさんが、猿彦を見上げる。それから、ぎゅ、と柳眉を寄せると唇を戦慄かせた。その頬は夕日に照らされた以上に赤く染まった。
 僕は何だか見てはならないような気がして、目を背けようとした。――と、その時だった。
 彼女は僕の想像の遙か斜め上の人物だった。何事か言おうと唇を開閉させた彼女は、突然、思いっ切り猿彦に頭突きを喰らわせたのだ。
 猿彦の身体が傾ぐ。
「あ、あなたに心配されたらっ、お、お終いだわ!」
 それから、ぼちゃんっ、とあがる水音。
「さっ、猿彦!?」
 驚き駆け下りた僕に、たづさんの拳が降る。といっても、生身の身体では僕に触れられないのだから、すり抜けるだけだけど。
「何で見てんのよ! あっち行きなさいよ、オバケ!! ばか! バカバカバカ!」
「いや、オバケってたづさんも……」
 ――って、そんな悠長にしている場合じゃない!
「猿彦!」
 僕は大慌てで水の中に飛び込んだ。
「あ、敦盛くん?」
「ぷはっ!! あああ、びっくりした。死んだかと思った」
 川面から顔を出すと、猿面を取り、僕は思いきり空気を吸う。
「な、なんで突然、憑依―――」
 土手から這い上がった僕にたづさんが問うた。僕は、腰元に括り付けられている自分の面の存在を確認しつつ、答えた。
「猿彦は水に入ると呪が消え落ちちゃって、呼吸ができなくなるんです。気息の穴が塞がっちゃうから。だから僕が代わりに呼吸をする必要があって……つまり、早く、新しいの書き直さないと猿彦の魂が危険なんです。なので、お寺に帰ったら、すぐに文を書きたいのですが、色々お借りしてもよろしいですか」
 猿彦には顔がない。顔がなければ呼吸ができない。呼吸ができなければ、魂が淀む――怨霊になる。だから、猿彦には特殊な呪が施され、気息の穴が穿たれているのだ。その処置を施されているのは、何も怨霊だけではない。
 僕の言葉を中途で遮り、たづさんは血相を変えて僕の腕を掴むと土手を駆け上がった。