舞々花伝

歩き巫女、たづ(4)

 憑依された少年の意識が逸れたのを機に、僕とたづさんは先ほど除霊した女性を避難させてから、猿彦へと駆け寄った。
 たづさんが投げた剣はすでに消滅しており、猿彦が剣を受けた腕には傷一つ付いていなかったけれど、聞けば、(なか)の方はきちんと怪我をしているらしく、左腕に違和感があるらしい。
「兄ちゃん!」
 その時、ぶつくさとたづさんに文句を言っていた猿彦のもとへ、元雅くんと一緒にやって来ていたのだろう、しいちゃんが駆け寄ってきた。
「あら。元能くん」
「こんにちは、たづさん」
 しいちゃんの親しげな様子に、僕と猿彦は顔を見合わせた。
〔知り合いか?〕
「お寺さんの手伝いに、何度か来てくれた事があるのよ――ん? ちょ、ちょっと待って」
 猿彦の問いに、たづさんは頷きかけて、はた、と難しい顔をすると片手を上げた。
「元能くんは元重さんの弟で、で、あなたも観世の人間で元重さんの弟で……? しかも今さっき元能くんったら、あなたの事『兄ちゃん』って言った? ってことは何? あなた、この素直で可愛い元能くんの兄貴なの!?」
〔文句あっか〕
「全然、顔似てない!」
〔これは面!!〕
 すかさず突っ込みを入れた猿彦だったが、
「………曩謨三曼荼縛日羅南」
 元雅くんの朗々とした声を耳にして、バッと身体を起こした。
「東方に降三世明王、南方に軍荼利夜叉、西方に大威徳明王、北方に金剛、夜叉明王、中央の大聖不動明王」
〔あの馬鹿……マジだ〕
「曩謨三曼陀縛日羅南、旋多摩訶ロ遮那……」
「これは……不動明王の秘法?」
 どんな死霊も怨霊も降伏すると言われている、高度な祈祷文だ。
「娑婆多耶吽多羅他漢満!」
 元雅くんが打ち杖を少年へ向ける。
 その先に光が集まった瞬間、びゅんっと宙を切って赤い炎が伸びた。
「こんなもの……」
 真っ直ぐと少年へと向かったそれは、避けようと足に力を入れた彼の目前で、ばっと網の目に広がった。
「な、にィ……ッ!」
 一瞬でその赤い炎は敵を捉えた。
 ギリギリと締め上げられ、少年の唇から絶叫が迸る。
 ――勝敗は決した。
 僕は元雅くんの圧倒的な強さに唾を飲む。
「ひっ…………いいいや、いやじゃ……」
 憑依していたモノが炎に握り潰される――正にその時だった。
「さ、猿彦!?」
 僕の脇を、ヤスケを引っつかんで猿彦が駆けた。
 そして思いもよらぬことに、中断の呪を唱えると、少年を捉える炎をぶった斬ったのだ。
〔一空一切空無假無中而不空!〕
 しかし、途切れた炎はすぐに再び勢いを取り戻し、今度は少年だけでなく猿彦にもその触手を伸ばす。
〔止めろ!〕
 炎を防ぐヤスケに声が浮かび上がる。
 それを読んだ元雅くんは、切れ長の目を忌々しげに細めた。
「しいならともかく……僕がさ、あんたが死ぬかもしれなくて、このまま術を止めると思う?」
〔……思わない〕
 猿彦が力に押されて一歩退く。
〔むしろ〕と彼は続けた。
〔俺が、お前を〕
 目前に掲げたヤスケが淡く新緑の色に輝きだす。
〔ぶっっっっっっっっっっ潰す!〕
 大地が割れたかと思うほどの轟音をあげて、猿彦は力を解放した。
 一息に、光の網がずたずた破られる。
「くっ……邪、魔、するなァ――ッ!!」
 元雅くんも本格的に猿彦に標的を絞り、打ち杖を振るい始めてしまう。
「な、何なのあいつら。兄弟じゃないわけ!?」
「…………そのはずなんですけどね。でも、なんというか、仲が悪くて」
 たづさんの呆れかえった声が問うのに、僕は肩を竦めた。
「仲が悪い? って、程度の話じゃないでしょーがっ」
 ごもっともです。
 なんて、納得している場合じゃない。
「猿彦! 兄弟喧嘩は後でやりなよ。今は、それどころじゃないだろう!?」
 口に手を添えて、僕は声を張り上げる。
 少年が荒い息を吐き出しながら、身体を起こしかけているのだ。
 喧嘩に気を取られている二人は気付いていない。
 かと言って、二人の間に止めに入るのも……と、躊躇する僕の耳に、
「……兄ちゃん、ダメ」
 しいちゃんの呟きが聞こえた。
 はっと隣を見下ろせば、幼い末妹の姿はすでにない。
「しいちゃん!?」
 走り出していた小さな背中に僕は驚愕する。
 慌ててその手を押えようにも、もちろん触れることなどできなくて。
「猿彦! しいちゃんが――――」
「兄ちゃっ……ダメ!」
 正に二人が攻撃を仕掛けようとした時。しいちゃんは躊躇なく元雅くんに飛びついた。
「しいっ!?」
 元雅くんが慌てて呪を止める。
「しいたちは黒翁を止めに来たんだよ!」
 必死の訴えに、兄二人がはっとする。その気まずい一瞬の沈黙を、
「思い上がるな、人間んんんんんんん!!」
 少年――黒翁の怒号が破った。
 もわっと黒い霧が少年の身体から浮かび上がる。
「お前は此処で処分されるんだよ!」
 元雅くんはしいちゃんを脇に押しやると、再び打ち杖を構えた。
〔させるか!〕
 が、すかさず猿彦が間に入り、放出された赤光をヤスケで打ち落とす。
「……いっちいち邪魔だな。彦兄は大人しく引っ込んでてよ!!」
〔邪魔はてめぇだろーがッ!〕
 猿彦の背後で、少年から出た黒い靄はもくもくと蒼穹へ伸びていく。
「わらわは神ぞ。下等な人間ごときに付き従う神格ではない!!」
 可憐な声が忌々しげに吐き捨てると、靄に穿たれた禍々しい赤の瞳が、観世の三兄妹を見下ろした。
「覚えておれ! 貴様ら、必ずや八つ裂きにしてくれる!!」
〔って、何処行く黒翁っ!! ――待てッ!〕
 猿彦が慌てて、その後を追おうとするも、その靄は空中で霧散してしまう。
 ……後には先ほどの攻防など嘘のように、夜気を含み始めた風が、背の高い草を揺らしていた。
「……しいちゃん、大丈夫? どこも痛くない?」
〔てめぇのせいで黒翁が逃げた〕
 すぐさま臨戦態勢を解いた元雅くんが、甲斐甲斐しく妹の安否を気遣っていれば、その彼に、猿彦はずかずかと足音高く歩み寄り、ヤスケを鼻先に突きつけた。
 元雅くんは面倒そうに、剣呑な光の宿る眼差しで兄を見返した。
「……あんたが邪魔しなければ仕留められたんだよ」
〔仕留めるんじゃねぇだろーが〕
「何? やる気? こちとら今、凄い虫の居所が悪いんだけど」
〔それはこっちの台詞だ、バカマサ〕
 胸ぐらを掴みあげられた元雅くんが柳眉を吊り上げる。と、
「いい加減にしなさいよ」
 見かねたたづさんが、止めに入ってくれた。
〔うるせぇな、この〕
 それに、怒り心頭、乱暴な所作で振り返った猿彦だったけれど、
「いちいち突っかかるの、やめてくんない」
 再び脛を蹴られて、さすがの彼も大人しくなった。

( 三ノ段 了 )