舞々花伝

舞々四兄妹(2)

 門をくぐれば、広大な敷地の中央に聳える吹き抜けの稽古場に出迎えられる。
 僕らはすぐ右手を長屋沿いに歩いた。
 観世の一家や、座員、内弟子などが住まう長屋は稽古場をコの字に取り囲んでおり、猿彦の自室は右奥の、大きな桜の枝に覆われた所にあった。
 僕らの後ろを追い掛けてくる、陰口にしては声高な、悪口の数々……
「何て態度だ。居候の分際で」
「誰のおかげで、今、此処にいられると思っておるのだ」
「奴はすでに舞々としても認められん! さっさと出て行けばいいものを」
 僕はいつ相棒が怒り狂ってヤスケを振り回し始めるか気が気じゃない。
「猿彦、気にすることはないよ。みんな、しいちゃんが心配で気が立ってるだけで……」
 気休めにもならないことを言えば、足駄を脱ぎ、縁側に足をかけた猿彦が振り返った。
 殴られると勘ぐって、びくりと身体を縮めれば、彼は一瞬、きょとんとしてから、乱暴に短髪をかきあげた。
〔俺は寝る。憑いてくんな〕
 そして、それだけ言い、僕にヤスケを押しつけると、さっさと室に引っ込んでしまった。
 目前で、ばん、と障子が閉まってやっと僕は詰めていた息を吐き、胸を撫で下ろす。
「お疲れさま」
〔おう〕と一言浮かんだヤスケを抱いて、僕は縁側に足をぶらつかせながら腰掛ける。
 と言っても、そんな風に見えるように浮いているだけだけど。
 ……霊体は物質に触れることができない。
 障子を通り抜けることはできても、開けることはできない。碗を持つこともできない。
 僕は透けた自身を見下ろし、やがて右脇に置いたヤスケを眺めた。
 手を伸ばせば、指先には不思議にも、きちんとした感触。
 ヤスケは――ヤスケのような舞々の武器は、〈神器〉と呼ばれている。
 僧侶の数珠や独鈷杵、錫杖や、陰陽師が使う符などと同じく、人と身体を持たない霊の両方に触れることができる品だ。
 とりわけ猿彦のヤスケは特別製で、京より遙か南、日向の霧島連邦に住まう修験者が、わざわざ猿彦のために作った代物だとか何とか。
 不意に、ばっさばさと死霊を打ち倒すヤスケの強さを思い起こして、ひやり、と背中に冷たい汗が流れた。
 慌ててヤスケから手を離した僕は、ふと、白んできた空を見上げてぼやく。
「今日は晴れるかなぁ」
 怨霊には寝る必要もないし、かといって、猿彦なしでできることなど何もない。
 ぼんやりしていると、生前の栄華を極めた生活や、家族のことが脳裏に浮かんだ。
 琵琶の名手だった兄は、今頃何をしているのだろう。
 極楽浄土で穏やかな死後を送っているのか、はたまた何処かで新たな身体を得て、別の誰かとして生きているのだろうか。
 そんな風に敬愛していた兄に思いを馳せれば、必ず、兄弟仲の良かった僕らと、複雑な関係の観世四兄妹を比べてしまうのだった。
「どうして、ああも仲悪くできるんだろうなぁ」
 観世の兄妹、とりわけ、しいちゃんの三人の兄たちはお世辞にも仲が良いとはいえなかった。
 一風変った趣味を持つおっとり長男・元重さんと、しいちゃんへの執着甚だしい、麗しの三男・元雅くん。
 この内、猿彦は、三男の元雅くんと強烈に仲が悪い。
「昔は仲良しだったとは聞いてるけど」
 五年前――猿彦が顔を失った儀式をきっかけに、彼らの間に亀裂が入ったと聞いている。
 が、何度、兄弟喧嘩に巻き込まれて殺されかけたか知れない僕には、仲の良い彼ら――特に猿彦と元雅くんが笑い合う姿など想像もつかないのだった。
〔ぎゃっ……!〕
 と、ふいに、手元のヤスケに文字が浮かんで、僕は首を傾げた。
「ぎゃ? ……って、猿彦ッ?!」
 一拍遅れで、それが悲鳴だと気付き、僕は慌てて立ち上がると障子をすり抜けた。
 部屋に一歩踏み込めば、猿彦が拾い集めたガラクタの山が出迎える。
 その大部分は彼がその形をこの世で一番美しいと絶賛する杓文字だ。
「うわ!?」
 僕は奥から転がり出てきた黒い影に驚き、宙に飛んだ。
 その影がガラクタの山に突っ込むと、音を立てて板敷に物が散らばる。
〔ったく、この酔っ払いが!!〕
 燈火に揺れるヤスケの文字。
〔何だって、俺の部屋で寝てやがる!?〕
 黒い影はそれに答えるでもなく、「あ、相変わらず素晴らしい蹴りですね」などと、おかしなことを呻いた。
 僕はその正体にあっと声を上げる。
「も、元重さん!? だ、だだ大丈夫ですか!?」
 薄暗い中、身体を起こしたのは観世四兄妹の長男・観世三郎元重――猿彦の二歳年上の兄だった。
 紺の狩衣に身を包んだ彼は、猿彦よりも頭半分ほど背が高い。
 女性のような垂らし髪で、ふわりと緩やかな流れを描く前髪の下の瞳は、色素の薄い茶色……
 怜悧さを湛えた美しい人だ。
 けれど、その目鼻立ちの整った造形よりも穏やかさや優しさの滲み出る雰囲気の方が印象的な人だった。
 彼は、出仕から帰ったその足で猿彦の室を訪ね、そのまま力尽きたのだろう。
 酒気の抜けきらない潤んだ瞳は色っぽく、衣服はあちこち皺だらけだった。
「ふぅ。おはようございます、猿彦。それと……敦盛くん?」
「此処です」と僕は一応手を上げて応える。
 五年前の儀式で力を失ったという元重さんには、残念ながら僕の姿は見えない。
〔服を何とかしろ〕
 とっくに寝間着に着替えていた猿彦は、次いで僕を振り返ると命じた。
〔敦盛、舞え〕
「うわっ……」
 唐突に身体を得て、僕は無様に前のめりに転んだ。
 思い切り板敷にぶつけた肘の痛みにしばらく耐えてから、僕は恨めしげな声をあげる。
「君に話があるんだろ。何だって僕が」
(うるっせぇ。黙れ)
 脳内に響く、予想通りのぶっきらぼうな返答。
 更に言い募ろうとすれば、猿彦はそれを遮り、拗ねたように言った。
(相づちとか、いろいろねえと、話辛いだろ。それに、お前も言ったじゃねえか。ヤスケは物騒だって)
「いや、さっきのはそういう意味じゃなくて……ちょ、ちょっと猿彦!?」
 素直じゃないだけなのか、いじけているのか量りかねている内に、猿彦は意識の奥深くに消えてしまう。
「あれ? 敦盛くん?」
 と、居住まいを正した元重さんが僕に気付いてきょとんとした。
「猿彦は、ええっと……ヤスケで話すのは無礼だと」
 僕は慌てて猿面を取り腰を下ろすと、頭を下げた。
 ふんわりと鼻孔を擽る、白檀の香り……元重さんが衣に焚きしめているのだろう。良い匂いだ。
「気遣いは無用なのに」
 くすり、と苦笑を落とし、元重さんは小首を傾げる。
 弟の考えることなど、この兄にはお見通しなのだ。
「猿彦。聞こえていますね。私は、君と話をしに来たんです。さっさと(おもて)に出なさい」
 ついで告げられた穏やかな、けれど相手に否とは言わせない声に、僕の中で猿彦が盛大に舌打ちをした。しかし、彼がそれでもごねるということはない。
「僕、席を外しましょうか」
「敦盛くんも此処にいてくれて構いませんよ。内密の話ではないんです」
 それに頷いてから、僕は外したばかりの面を顔にかけ、素直に猿彦の身体を離れた。
〔……で?〕
 どっかと片膝を立て、壁に寄り掛かり座った猿彦の隣に、僕も腰を下ろして背筋を正す。
〔っつか、疲れてんなら、休んでからでもいーんじゃね〕
「猿彦が疲れているなら、またにしましょうか」
 そう言って、元重さんが腰を持ち上げれば、見るからに猿彦は慌てた様子で首を振った。
〔や、いい。俺はいいんだよ〕
 もちろん日がな一日寝てばかりいる猿彦が疲れているわけはない。
 元重さんは、それが自身に向けられた気遣いだと気付いているのだろう、弟を見る眼差しはどこか嬉しそうだ。
〔んで、話って?〕
 身体を揺すって顔を背けた猿彦が先を促せば、元重さんは少しだけ真面目な顔つきをして、袖の中から文を取り出した。
「こちらに私のしたためた礼状があります。これを、ある女性のもとへ届けていただきたいんです」
〔元雅にでもやらせろよ〕
「まーくんは宴が立て続けに入っていて、空いていませんし……」
〔どーせ俺は暇人だ〕
「ではなくて。どうしても、猿彦に行って貰いたいんですよ」
〔だから何で〕
「え? ええっと、あの……大したことではないんですが」
 元重さんは、語尾を濁すと俯いた。
 やがて、手近にあったガラクタの山から適当なものを引き抜くと無意味に弄り始める。
 その様子をしばらく眺めやってから、猿彦はどんどんと板敷をヤスケの柄で叩いた。
〔礼って何の礼だよ?〕
 問いに元重さんは肩を竦めた。
 ややあってから、手にしていたものを放ると、彼は苦笑と共に頭をかいた。
「数日前、ちょっと死霊に憑かれてしまいまして……それで、その女性――歩き巫女のたづさんというのですが、彼女に助けていただいたのです」
〔助けて……貰った〕
 復唱して、猿彦はがっくりと頭を落とした。
 元重さんは申し訳なさそうに身体を縮める。
 舞々として選良階級でもある観世座の、それも将来、大夫にと一時期は猿彦と並んで期待されていた彼が、祓魔師として最も下級の歩き巫女に除霊をして貰ったなどと大っぴらにできるはずがない。
 しかも、憑依されたのは、強い自我のある〈怨霊〉ではなく、浮遊霊に毛が生えた〈死霊〉なのだとは……
「確かに、元雅くんには口が裂けても言えないよね」
 猿彦や元重さんの弟である元雅くんは現在、兄たちに代り、将来座を背負って立つ〈若大夫〉の位にある。
 けれど、その彼が、山よりも高く海よりも深い『誇り』に生きているのは、観世座の人間ならば誰もが知っていることだった。
 死霊に憑かれたなどという失態を知られたら最後、家を追い出されるだけでなく、彼の性格を考えるに、醜聞と共に存在自体を抹消されかねない。
「本当は私自身が伺わねばならないのですが、ここ暫く空いていなくて。せめて、手紙だけでもと思ったんです」
〔なるほどな〕
「素晴らしい足技で……なかなかくせになりました」
〔んなこた、聞いてねぇよ〕
 ぽっと頬を赤らめてずれた感想を述べる兄を、猿彦は慣れた様子で無視する。
〔で、場所は〕
「四条橋を渡ったすぐそばの……泣地蔵寺って知ってます? あの、御参りすると目がよくなるっていう。そのお寺に住み込んでいるみたいです。ええっと、頼まれてくれますか?」
〔面倒だが仕方ねえ〕
 猿彦は渋々ながらも頷いた。
〔一眠りしたら、すぐ出かける〕
「良かった。ありがとう、猿彦」
〔やめてくれ。こちとら毎日、世話になってんだ〕
 猿彦は鬱陶しげに手を振った。
 元重さんは一瞬、きょとんとしてから、朝日に透ける美しい微笑みを浮かべる。
 猿彦はそんな兄を正視できないというように、がしがし頭をかくと不自然なほどに顔を背けた。と、
「重兄、お客さんだよ」
 凜とした声が室の外から元重さんを呼んだ。
 その瞬間、猿彦の全身に敵意がみなぎる。
 ……それだけで声の主が誰なのかが分かった。
 観世十郎元雅くん――現若大夫。
 猿彦と同じ十七歳の、観世四兄妹の三男坊だ。
「重兄。いるんだろ? 聞いてる?」
 中庭に面した室の障子を引き開けて顔を覗かせたのは、頭頂で長髪を束ねた総髪姿の、目を瞠るばかりに美しい少年だった。
 色白の細面に、すっと通った鼻筋、涼しげな漆黒の瞳には誇り高さと意地の強さが煌めく。白練の狩衣に身を包んだその姿は、男装の舞姫と見紛うばかり……
 父・元清さんと寿椿さんの麗しさを余りなく受け継ぎ、更にそれに奇蹟を掛け合わせたような、神がかった美貌だった。
 男の僕ですら彼の姿を前にすると、一瞬、その天上人のごとき美しさに言葉もなく見取れてしまう。――中身を知っているにも関わらず。
「まーくん、帰ってたんですか」
 元重さんが膝を滑らせ振り返るのに、そのすぐ側まで歩みよると、彼は立ったまま兄を見下ろした。
「たった今、帰ったんだよ」
 そう鼻で笑う。
 まるでお前と違って忙しいのだ、とでも言うように。
 その不躾な態度に、勘弁ならんと猿彦がヤスケをついて片膝を立てた。
 一触即発の雰囲気に、僕は慌てて相棒を背に二人の間に滑り込む。
「それで……お客さんって、どちら様ですか」
「男」
「お、男?……青蓮院からのお遣いですか」
「違う」
 こんな朝早くから元重さん宛てに遣いを寄越すとすれば、彼の最大の後援者、暴虐非道にして暴虎馮河の暴君坊主、三暴を冠する青蓮院の義円殿と決まっているのだが……どうやら違うらしい。
「どなたですかねぇ。とりあえず会ってみます。知らせてくれてありがとう、まーくん」
 元重さんは思案げに立ち上がると室を出て行った。
 猿彦はその背を見送ってから、さっさと奥の間の寝具に滑り込もうとして……腕を組んだまま動こうとしない元雅くんに気付き、ヤスケを引き寄せる。
〔さっさと出ていけ。俺は寝るんだ〕
「しいちゃん、怪我してたんだけど?」
〔ただの擦り傷だろ〕
「あんたの頑丈な身体とあの子のか弱い身体を一緒にしないでくれる?」
 あくまで食って掛かる様子の弟に、猿彦は犬にでもするようにしっしっと手を振った。
〔あっち行けよ……ったく、妹馬鹿め〕
「しいは馬鹿じゃない!!」
 言うやいなや、元雅くんは腰に佩いていた神器・打ち杖――腕ほどの長さの、木の枝のような、折檻の折によく使われる赤い杖を抜き放った。
 それに猿彦も足を踏みならして立ち上がる。
〔てめえが馬鹿野郎だっつったんだよっ!!〕
 一瞬にして間合いを詰めた二人は、互いの首筋へ目も止まらぬ速さで武器を突きつけた。
「ちょ、ちょっと、やめなよ。朝餉もまだなうちから、そんなに騒々しくしちゃ…………ひっ」
 止めに入ろうとすれば、二人は睨み合ったまま、示し合わせたかのように、神器の切っ先を僕に向けた。
 こうなっては、両手を上げて降参の意を示しつつ、すごすごと退くしかない。
「……やる気?」
 元雅くんの美しい顔が酷薄な微笑みを象る。
「僕、手加減しないから。殺しちゃっても文句言わないでよね」
〔お前こそ。ベソかいて謝っても許さねぇ〕
「僕が? ベソ? あんたのせいで? ふ…………ふふふ、あは、あはっ、あはははははっ! じょ、冗談やめてよ、兄さん。くっだらない。も、笑い過ぎて」
 打ち杖を構えたまま、元雅くんが腹を抱えて笑いだす。――ああ、マズイ。
「ほんっと、八つ裂きにしたくなるじゃないかあっ!!」
 咆哮と共に彼の杖が宙でしなった。
 同時に大地を揺るがす轟音がして、太刀を幾度も振り下ろしたような、深い抉り傷が足元に走る。
〔そう熱くなるなよ、バカマサ〕
 元雅くんの攻撃をヤスケでもって受け止めた猿彦にはまだ、兄としての余裕があるように見えた。
 軽くいなすつもり……かと思ったけれど。そんなものは僕の妄想だった。
〔遊んでやるって言って……んだろーがあっ!!〕
 猿彦が叫ぶと同時に、全身から光が暴発。
 吹っ飛ばされた元雅くんは空中で体勢を整えると、壁を蹴って再び兄へと飛びかかる。
 神器同士がぶつかり合い、火花が飛び散った。
 杖が生み出す赤いカマイタチが板敷を抉り、一方でヤスケの閃光が煌めき、床が白い煙を上げて黒ずむ。
「ああ……また、始まった」
 僕は額を指先で揉み、溜息をついた。
 身を屈めながら、二人に背を向け庭先に出る。
 この場にいたってろくな目に遭わないのは明らかだった。
 あんな攻撃、少し掠っただけで僕が消えてしまう。
 さっさと逃げるに越したことはない。
「やだやだ。僕はこりごりなんだ。絶っっ対、巻き込まれないんだから」
 四つん這いになる僕の上を、もの凄い音を立てて障子が吹っ飛ぶ。
 庭に落下し、粉々に砕け散るそれ……その攻撃に、ぞっと危機感を覚えて、先ほどよりも速度を上げ、僕は庇を這った。と、
「あれ……? 元重さん?」
 門の辺りで客人と会っていた元重さんが、音に驚いたのだろう、はっとしてこちらを向いた。
 その面に恐怖が過ぎったのを、僕は見逃さない。
 ……何だ?
 胸に何だか影が差す。
 不安……けれど、それが何に対して感じたものなのかは皆目見当がつかない。
 不信に思って眺めていれば、彼は辛そうに目を閉じ、客人――思ったよりも年若い少年だった――に再び向き直った。
 何だか気になって、近づこうとした矢先、
〔舞え、敦盛!〕
 唐突に猿彦に呼ばれた。
「うわはっ……」
 うなじを掴まれ無理矢理引きずられるような感覚……せっかく室を出たにも拘わらず、僕は気付けば今さっきまでいた奥の間に戻っていた。
 しかも身体を持って。さっき覚えた違和感は、それどころじゃなくて、僕の頭からすっかり抜けて落ちてしまう。
(ヤツを阿鼻叫喚地獄に叩き落とせッ!)
 脳内で高々と命じる猿彦の声。
「やだよ! ってか、僕、全然関係ないじゃん! 他人を巻き込まないでよ!!」
 端から見たら一人芝居の案配で僕は叫んだ。
 持ち霊として、生者に仇なす死霊・怨霊と戦うことは了承したものの、こんな危険な兄弟喧嘩の尻ぬぐいは仕事内容に入っていないはずだ。
「敦盛。加勢する気なんだ?」
 ゆらり、と朝日を背に前方で揺れる殺気。
 はっとして顔を上げた僕は、猿面の下、笑いを引き攣らせた。
「ち、ちが……誤解だよ、元雅くん。僕は、無理矢理―――」
 ずい、と杖の先端が突きつけられる。
 ばりばりッと空間を食い破るかのような音を立てて、打ち杖の辺りに赤光が舞った。
「ま、いいよ。しいに随分と気に入られてるみたいだし……それって万死に値するよね?」
「そ、そんな」
 意味が分からないよ。
「て、いうか、しいには僕だけいればいいんだ。お前、邪魔なんだよ」
 元雅くんはにこやかに微笑んだ。
 そこに滲むのは爽やかな、紛うことなき……殺気。
 僕は一歩退く。元雅くんが一歩、大股に距離を縮める。
「この際だからさあ、彦兄と一緒に消えちゃえよ。――――っていうか、消えろ」
「ひっ……」
 す、と杖が横に流れた。木に雷が落ちたような音がたつ。
 僕は庭を目指し、元雅くんの脇を前方へ転がった。
 板敷がずたずたにえぐれる。
 幸いなことに衣を破かれただけですんだが、次はどうなるか知れない。
 そのまま背を向けて逃げ出せば、尻を蹴られた。
 僕はぶざまに顔から板敷に突っ伏せる。
「さっさと面取って、笛を吹きなよ。ぴーってさ。笛吹き名手の敦盛さん。ほら。ほらほらほらほらぁッ!」
 鈴のような綺麗な笑い声を立てて、元雅くんが迫る。
 いや、もう、本当…………冗談じゃないよ!
 僕は転ぶようにして中庭へと飛び出した。
 何だって他人の兄弟喧嘩に巻き込まれたあげく、殺されかけねばならないのか。
 なのに、
(逃げてんじゃねぇ。さっさと笛吹け、この馬鹿!)
 地に降り立った僕の身体はピタリ、と制止してしまう。
 身体の持ち主が逃走を許さないのだ。足が地に縫い付けられたように動かない――逃げられない。
 背後を振り返った僕は、美しい鬼神にごくりと生唾を下した。
 穏やかでない光を湛える澄んだ瞳と目が合う。
「あ……」
 恐怖に身体が縮み上がる。
 僕は必死に立て直しを試みる。
 ……大丈夫。大丈夫だ、僕。僕はやれる子なんだ、と。
 面に手に添える。
 それは外すと同時に、笛に変化していく。
「そうそう、素直にやりあってよ。無様にあがいてくれないと楽しくないからさ」
 元雅くんが歪んだ笑みを浮かべる。
「ああ、あ、敦盛、ま――――ま、い」
 僕はガタガタ震える手に無理矢理力を込めると、ぐっと笛を握りしめ、
「――――参りましたっ!!」
 倒れ込むように膝を折ると、両手を前方について、額を地に叩きつけるように頭をさげた。
 完璧に相手の意表を突いたと思う。その証拠に、元雅くんは戦意を失いぽかんとしている。
 僕は自分の戦略に満足し、危機を脱したことを誇らしく思うと同時に、安堵で胸を撫で下ろした。
 が、僕の中で響く、おどろおどろしい猿彦の声。
(…………あーつーもーりぃぃぃ!)
 ぴたり、と右手の感覚が途切れ、やがてふるふると震え出す。
 あ、と思う暇もなく、右腕の制御権が猿彦に移行。
 しかし、だからといって僕は焦らない。これも考えの内なのだ。
(ふっ………ざけんなああっ!!)
 右から繰り出されると分っている拳など、ひょひょいのひょいで避けられ――――
「ぎゃんっ!」
 左の拳を左頬にねじ込まれ、僕は文字通り吹っ飛ばされた。
 ……なるほど。僕が猿彦の考えを察することができるように、彼もまた、僕の思考を察することができる。
 僕はそんな些細なことすら忘れていた……よう、だ。

( 二ノ段 了 )