舞々花伝

猿と杓文字と、その怨霊(1)

 藍色だった東の空が、うっすらと薄紫を滲ませる夜明けの頃。
 風も絶えた蒸し暑い夏の薄闇の中、京の東――南北に走る鴨川沿いを、僕は必死に走っていた。……三本足の足駄で疾走する、相棒の背を見失わぬように。
 短い乱髪に深緑の狩衣を身にまとい、背に上背ほどはあるだろう大きな杓文字(通称、ヤスケ)を背負った相棒の名は、猿彦さるひこ
 本名、観世かんぜ五郎ごろう元次もとつぐ。僕と同じ十七歳の舞々だ。
 〈舞々〉と言うのは――上つ方々をお護りする陰陽師やお坊さんに対し、身分もお金もない庶民を、怨霊や死霊から守る祓魔師の一つ。
 彼は中でも、名高い四座の一・観世座の舞々だった。
「猿彦!! 空気が重い。死霊たちが集まってるんだ。早くしないと――」
 僕が横に並ぶと、相棒は右手の人さし指で天を示して答える。
「分かった」
 その意図に頷き、僕は地を蹴った。
 成人男性の上背十倍ほど飛び上がり、宙に制止。僕は不気味に静まり返った京の町筋を背に、(かのくつ)の下に広がる河原を見下ろした。はたはたと身につけた薄紫の袍が揺れる……
 夜明けを待つばかりの四条河原は、昼間と打って変わって暗澹たる雰囲気を漂わせていた。
 河川敷に点在する貧しい人たちの荒ら屋、その前方に流れる暗い川面の上には黒い霧が立ちこめ、蠢く影があった。
 死んでなお、この世に未練を残し、生者に執着する〈死霊〉と呼ばれるものたちだ。
 腹ばいになって彷徨う餓鬼、さやさやと揺れる藻草の如きは、恨めしさを訴える死霊の腕……
 おぞましいけれど、さして珍しい光景じゃない。
 この刻限、朝日を迎える直前の世界は、生者と死者の境が最も薄れる頃合いなのだ。
 南下し、大橋に近づくにつれて、より一層、空気が淀んだ。見ているそばから死霊らが、雨水が染み出すように地から現れ、数を増していく……
「しいちゃん……一体、何処に」
 僕は焦りと共に、目を眇めて目的の人物を捜した。
 まるで美味しい餌に引き寄せられるように死霊らが向かうその先を目で追えば、黒い塊が取り囲む中心に微かな光が目に入る。
 月光りのような、澄んだ銀。
「いた! 猿彦、しいちゃんはあそこだっ!!」
 耳の上で切りそろえられた銀に近い白髪、一本歯の足駄。
 篠懸を着て輪袈裟をかけた山伏の恰好の幼い少女が死霊らに追われているのを認めて、僕は声を張り上げる。
 満十歳になる、可愛い盛りの猿彦の妹・観世七郞元能(もとよし)――しいちゃんだ。
 僕の声と同時に、猿彦はヤスケを背から引き抜き頭上で一回転させると、死霊らの群れに突っ込んだ。
 太陽を凌ぐ白光が煌めき、死霊らが吹き飛ばされる。
 その間隙を緑の狩衣が駆け抜ける。
「相変わらず、凄いなぁ」
 彼の背後に残る累々たる死霊の残骸。
 幾度見ても、彼の、楽しげにも見える思い切りの良い戦い方には嘆息せざるを得ない。
「でも」
 けれど今は戦う事、それ事態に目的があるんじゃない。
 死霊に追われる、彼の妹を救い出さなきゃならないのだ。
 はらはらと相棒を見守っていた僕は、しいちゃんが地に倒れ込んだのを見て、いてもたってもいられず空中を蹴った。
「猿彦! 先に行くよ!!」
 風に乗り、滑るように宙を急降下。僕は文字通りしいちゃん目がけて飛ぶ。
「あ、敦盛さん……」
「無事だね。怪我は――――」
 わっと襲いかかろうとした死霊らをひらりと越え、しいちゃんを背で庇うようにして着地した僕は、
「だ、だだ大丈夫!?」
 彼女を振り返り、その右の脹脛から鮮血が溢れているのに気付いてぎょっとした。
 おそばせながら死霊の爪に切り裂かれ、転倒したのだと思い至る。
「うん。平気」
 慌てる僕とは裏腹に、しいちゃんは涙の浮かぶ大きな目を袖で拭うと、笑みすら浮かべて、首を振った。
「…………そっか」
 十歳の幼子にとってどれだけ辛いことだろう。
 それでも必死に堪えるのは、彼女もまた舞々だからだ。
 それなのに、僕がしつこく気遣うわけにもいかない。
「うん。うん、偉いね、しいちゃん。立派だ」
 そう力付けるように頷いて、僕はしいちゃんの頭に、手を添えるようにかざした。
「家に帰ったらすぐに手当てしよう。今に猿彦が来るから……」
「彦兄が……?」
 ニッと口の端を持ち上げて見せてから、僕は敵に向き直った。
 突然の闖入者に警戒してか、幸運にも死霊たちの動きは緩慢になっている……
 力を測ってでもいるのだろうか。
 どちらにせよ、僕は心中、手のひらを合わせ相棒の早急な到着を願った。
 早く、早く。猿彦、早く来て!
 猿彦と違って、僕は今のままじゃ何の役にも立たないのだ。
「…………黒翁」
「え?」
 ふいに聞こえた不安に震える声に、目だけで声の主を見やれば、しいちゃんが蒼白な面持ちで辺りの草むらに手を這わせていた。
「ど、何処? 黒翁……黒翁!!」
「しいちゃん?」
「敦盛さん、どうしよう。黒翁が――――」
 狼狽した様子で彼女は僕を見上げると、縋るように手を伸ばしてくる。
「あっ……」
 と思った時には、彼女は僕の身体をすり抜け地に顔から倒れ込んでいた。
「しいちゃん、落ち着いて? 一体、どうしたの……?」
 僕に触れられない事すら忘れるなど、彼女らしくもない。
 しいちゃんは決まり悪そうに砂に爪を立てると、きつく唇を噛んで首を振った。
「な……なんでも、ない」
 そう言って顔を上げた彼女は、いつもの……年齢以上にしっかりした様子に戻っていた。でも。
「しいちゃん……?」
 僕が訝しく思ったのも束の間。
「――――――うわッ」
 耳を劈く破砕音がたち、絶命した死霊の一部が転がってきた。
 はっとして音の方へと顔を向けた僕としいちゃんは、黒い霧のような血飛沫を吹き、死霊が数体、一度に倒れるのを見た。その向こうに短い黒髪が動く。
 現れたのは、緑の狩衣をまとった猿面の男――僕の相棒、猿彦だった。
 彼がこちらに歩み寄れば、彼より優に三回りも四回りも上背のある死霊らが、威圧感に気圧され、じりじりと後退し道を開ける。
「彦兄……」
 眉根を寄せる妹を、猿彦は肩を怒らせ無言のまま見下ろした。
 その猿面の、見開かれた目はきりりと力強く、まっすぐ通った鼻筋、毛並みを表わす漆で塗り固められた黒い部分はつややかだ。一見、厳めしく見えるが、額や口元の赤い肌に刻まれた緩やかな皺が親しみやすさを添える。
 しかし、いつもはどことなく剽軽な雰囲気を漂わせる精悍なその猿面は、この時ばかりは恐ろしいほどの怒気に翳っていた。
「ご、ごめ……」
「猿彦。しいちゃん、怪我してるんだよ」
 乱暴にしいちゃんの胸ぐらを掴みあげた猿彦に、慌てて僕が言い添えれば、彼は苛立たしげに妹を放った。やがて大杓文字(ヤスケ)で自身の肩を軽く叩くと、
〔怪我だあ? どーせすりむいた程度だろ〕
 彼は言った――いな、大杓文字(ヤスケ)の平らかな円に、すらすらと文字が浮かび上がった。

『顔なしの猿』

 人は彼をそう呼ぶ。
 それは、猿面の下に顔がないから。
 もちろん顔がなければ声もない。神力あらたかな面作者による猿面は、視覚しか補ってくれないらしく、彼はこうしてヤスケの表面に文字を浮かび上がらせる事で、他人と意思疎通を図るのだった。
「少しは優しくしてあげなよ。君より七つも下なんだよ」
 内心はどうあれ、幼い妹を気遣う態度を全く見せない相棒に非難の目を向ければ、彼は妹の傷を一瞥してからそっぽを向いた。
〔うるせぇ〕
 やがて苛立たしげに髪をかきあげると、再び包囲の輪を狭めてきていた死霊へと向き直る。
〔わーってるよ。 ……さっさと片付けて帰るか〕
 言って、彼は草を刈るようにヤスケを平行に振り、前方の死霊どもを威嚇すると、ドン、と柄の部分で大地を抉った。
〔敦盛。準備は〕
 ヤスケに浮かび上がる問い。
「いつでも」
〔んじゃ、ま、盛大に送ってやるか〕
 頷けば、猿彦は面へと手をかけた。
〔舞え、敦盛!!〕
 地に転がったヤスケが、ごろり、と音を立てる。
 ……僕は目を閉じた。
 全身を駆抜ける感覚――草花の香りが鼻梁を擽り、舌を湿らせる。
 早朝のツンとした空気に身体が包まれる。
 右手の指、左手の指、足の先まで動くのを確認。
 しっかりと自身の質感を感じて、僕は猿面を剥ぎ取った。
 薄紫の袍に蝶紋白地の袴と言う僕の束帯姿は緑の狩衣へ、(かのくつ)は三本足の足駄へと変わっていた。
「……敦盛、参ります」
 僕には少し長い袴を足駄で蹴って、一歩前に踏み出す。
 右手に持った猿面が目映い閃光を発し、一つの横笛に変形した。
 僕はそれを構えると、前方を見据え、息を吹き込む。
 ヒュィ―――ッ
 宙を裂く、細く尖った甲高い音。
 それと共に、ぽっかりと僕らの上空に暗闇が穿たれる。
 熱風を吐き出し、耳を塞ぎたくなる悲鳴と怒号を運ぶその穴は、覗き込めばちろちろと燃えさかる劫火が見えるだろう。
 今、この場は地獄へと繋がったのだ。
 断末魔を上げて、僕らの四方を取り囲んでいた死霊らが一斉に頭上の穴へと引きずり込まれていく。
 僕は視界の端でそれを確認しながら、肺に蓄えた空気を一気に吐き出した。
 一際高く鳴る笛の音……風が轟き、ざわざわと鴨川の水面に細波が立つ。


 ……空中に浮かんだ黒点が狭まってやっと、辺りは静寂を取り戻した。死霊の姿は一つ残らずかき消えていた。
「もう大丈夫だよ、しいちゃん」
 僕は辺りに危険がない事を確認すると、ヤスケを拾い上げてから、もう片方の手でしいちゃんの頭に手をおく。
「さ、一緒に帰ろうか」
 触れた柔らかな感触。
 僕は今度こそしっかりと彼女の小さな手を握った。……もう、すり抜けたりしない。