舞々花伝

 生者のため、亡者のため、あの世とこの世の狭間に生きる輩がある。
 彼らはおもての下に自身を殺し、死者の魂にその身を委ねる。
 ――すなわち《舞う》。
「面は『かぶる』ものじゃねぇ。『かける』もんだ」
 そう言って、命 掛け で亡者と舞い狂う彼らは、あの世とこの世の 架け 橋。
 人は彼らを『舞々まいまい』と呼んだ。

序ノ段 罪を抱く夜

 年明けを迎えた冬籠もりの最終日。
 質素な、明かり取りすらない暗い部屋で、一人の少年が舞っていた。
 ある秘された寺院の天井裏・時部屋。
 そこは舞台と見紛うほどの広さと高さを持っている。
 その室内の四隅で、燈火が頼りなく揺れ、板敷に映し出された少年の影が蠢いた。
 少年は新緑を思わせる狩衣に身を包み、顔には黒い翁の面をかけている。
 真っ直ぐな白い眉に、長い顎髯。
 額に流れる三本の皺に、左右の頬に刻まれたのは陰陽を示す渦……それは、穏やかな容貌の老人の面だった。
 への字の目元は細く、そこから覗く視界は心許ないだろう。
 しかし、少年は迷いもなく、拍子を踏み続ける。
 部屋の入口辺りでは、少年の父と兄、弟の三人が並んで座していた。
 彼らの舞手を見守る目は厳しい。
「最後だ、元次もとつぐ……」
 少年の父・観世かんぜ三郎さぶろう元清もときよは苦しげに呟いた。
 ぴん、と張り詰める空間に、少年――観世五郎元次の手にする、ぶどうの房のような鈴がしゃらんと鳴く。
「これさえ舞い終え……奴を従える事ができれば、お前は晴れて皆に認められる存在となる」
 祓魔師、〈舞々〉一座を率いる者が修めなければならない儀式。
 そのために元次は十二歳という幼い身体に鞭を打ち、六十六もの舞を昨晩から丸一日舞い続けていた。
 今、最後の舞、《黒翁くろおきな》が始まったのである。
 しゃらん、しゃら…………ん
 袖が振られるたびに、明かりが揺れる。
 暗闇に添う鈴の音、長い影が床に寝そべり舞い狂う。
 流れ落ちる玉の汗が床にぶつかり、跡をつける。と、
 ――――ぶわっ!
 一瞬、元次の影が膨張した。
 ついで、彼は目に見えぬ何者かに袖を引かれたようによろける。
 立ち上がりかけた長男――元重もとしげを、「ならん!!」と、父が手で制した。
 元次は一度、耐えるように足を踏ん張った。
 けれど足に力が入らずに、そのまま傾ぐ。
「元次!」
 元重の悲鳴に被さるようにして、どたんっ、と重い音がたった。
 同時に、父は険しい表情で腰を上げる。息子たちもそれに続いた。
 三人は一斉に腰に佩いていた面袋から面を取り出し顔にかけた。
 すると螢火のような淡い光に全身を包まれ、みるみる内に三人の衣服が変貌する。
 ――――憑依。
 すなわち使役する霊をその身に降霊させたのだ。
 それは陰陽師にとっての符であったり、僧侶にとっての経文であったりするような、舞々がこの世ならざる者と対峙した折に用いる、特殊な力である。
「いたしかたない。元重、元雅もとまさ。あやつごと黒翁を殺す」
 父が苦渋の声が呪を唱え始めれば、
「ぐ……あ、あ、あああああああっ!」
 憑依した何者かごと、元次が苦しみ出した。
 地に倒れた彼の唇から、耳を塞ぎたくなるようなうめき声が迸る。
 首を掻きむしり、板敷の上を転がる息子の姿に、父は爪が食い込むほど拳を握ったが、けれど呪を唱え続けた。
 しかし、その呪は別の呪によって断たれた。
「一空一切空無假無中而不空!」
 父の苦悶の表情が驚愕の色を帯びる。
「元重? お前、一体……」
 苦しむ次男を背に庇うようにして、長男が立ちはだかったのだ。
「退け! 元重!」
「いいえ、退きませんっ!!」
 長男は手にした太刀を構えると言った。
「…………私にとって、大切な弟です」
 祈るような、言い聞かせるような、切実な叫び。
 それに答えたのは三男――元雅だ。
「父上。重兄は僕が抑えます」
 そう言うやいなや、三男は武器である杖を振りかぶると、兄へ飛びかかった。
「儀式失敗は、即ち死。重兄、あんたならそんな事、百も承知のはずだろう」
「ええ、分かっていますとも。けれど元次を……殺させはしない」
 まるで埃でも払うように弟を軽くいなし、長男は再び呪を唱え始めた父親へと直走った。
「愚か者が……ッ!」
 父と息子がぶつかり合う――正にその瞬間。
 儀式に倒れた元次の身体が緑色の炎に包まれた。
「なっ……――うああああああああ!」
 かと思うと、彼に背を向けていた元重にその炎が移り、彼もまた、絶叫した。
 室を切り裂く絶叫。
 長男は頭を抱えて狂ったように転げ回ると、面の下から血反吐を吐いた。
 やがてずるり、と力なく崩れ落ち、動かなくなる……
「まずい――――」
 父は元次に向き直ったが、一足遅かった。
 苦しみ悶える次男坊の全身から、立ち上る黒い影。
 やがて、元重の顔からみしりみしりと嫌な音がたつと、ついにバリッと彼の顔から翁の面が剥がれた。巨大な黒い塊が部屋全体に広がる。
 そして。
 ――きゃーはっはっはっは!
 ――きゃはははははっ!!
 突如甲高い少女の哄笑が響き渡ると、暴風が吹き荒れ、燈火が引きずられるようにして消された。
 ――自由ぞ。わらわは自由ぞぉ――っ!
 びりりと空気を振動させる圧力が、更に密度を増した瞬間――重い破壊音を轟かせ、黒い塊が天上を突き破った。
 ――あは、あは、あははははっ……
 その闇の道の上を、翁の面が宙を転げるように駆けてゆく。
「に、逃げた……黒翁が」
 父は呆然と穴から覗く重たげな冬の夜空を見上げた。
 ついで壁に凭れたまま動かない元重、そして、のっぺらぼうのように顔を失った元次を一瞥し、ぐ、と拳を握ると踵を返す。
「黒翁が逃げた! 奴は元次の顔をつけたままだ。そう遠くにはいけないはず……探すぞ!」
 室を出て、階下に声を張り上げてから、兄たちの惨状に立ち尽くす元雅を振り返る。
「何をしている、元雅。早く――――」
「兄さんはまだ生きています」
 元雅が、舞に失敗した兄をすっと指さすのに、「まさか」と、父は面を剥ぎ取り憑依を解くと、慌てて息子へと駆け寄った。
 元次は海から陸地に打ち上げられた魚のように、激しく痙攣を繰り返していたが……まだ、生きていた。生きようとしていた。
「も、元次……」
 父は沈痛な面持ちで、息子を見下ろし、その紙のように色を失った顔に触れる。
「父上」
 焦れたように、三男は問いを口にした。
「殺してやりますか。それとも―――?」
「…………助けて、やってくれ」
 父は、絞り出すようにそれだけ答えると、その場を三男に任せ黒翁を追った。
「分かりました」
 涼しげな表情で頷き、三男は兄に歩み寄ると、てきぱき処置を施していく。
 人形の如く、麗しい三男の面には何の感情も見られなかった。
 しかし、言動とは裏腹に兄に触れる手は冷えに冷え、震えていた。
 ――が、それに気付く者はこの場にはいない。

( 序ノ段 了 )