アラベスクに問え!

それぞれのアラベスク(5)

 遅めの朝を迎えた翌日。
 ハッグの壺を持って中庭に出たアルバートは、丸めた布の切れ端を鼻の穴に突っ込むと、めげずに採色を始めた。
 朝ご飯にヒューズはやって来なかった。
 布団に潜り込んだまま出てこない彼に一応声をかければ、彼は目覚めてはいたが起き上がれないようで、返事は全て「うおぇっぷ」だった。呆れ返りつつも、ベッドサイドに砂糖と塩と果汁を混ぜ合わせた水を用意してやったアルバートだった。
 作業場から木陰に机を持ってくる。
 その上に氷を敷き詰めた鍋を置き、ハッグの液体の入った容器を冷やす。
 アルバートは椅子に腰掛けると、机上で頬杖をついた。
 ハッグの液体は相変わらず気持ち悪い色だった。熱しても、渇かしても、砕いた鉱石と混ぜても蒼になる気配はない。
 一応、前日に試した数十の容器も机に並べられてはいたが、その全てが汚らしい色のままだった。
「どーすっかなァ」
 色が変らないだけでなく、臭いの攻略方法も検討がつかない。
 にも関わらず、もともと少なかった壺の中身は、そろそろ底がうっすらと見え始めていた。アルバートの胸中に焦りが積もった。
「くっそー。温度下げて日影でやっても、臭いが収らん。つーか、蒼にならん。蒼にならんっ!」
 もう頭の中の知恵は全部絞りきった。
 その知恵の絞りかすまで利用しても、ハッグの液体は蒼にはならない。
 こうなってはもうお手上げだった。蒼は壺の中身から採れるわけではないと結論づけるしかない。
「くあああッ! 蒼になれ! 蒼になれぃ!!」
 両手をかざして、アルバートは命じた。
 もちろん液体はうんともすんとも言わない。
「……昨日はすいませんでした」
 ぼそぼそと詫びる声が背後から飛んだのは、そんな時だった。
 アルバートはそれを完全に無視して、椅子から立ち上がると両腕をゆっくり大きく回してから、再び容器に手を向けた。
 手からナニカのミラクルパワーが発されるイメージと共に、蒼になれー蒼になれーと命じ続ける。
「アルバートさん」
 焦れたようにヒューズが再びアルバートを呼んだ。
 アルバートは相変わらず聞こえないふりを貫いた。
「聞いてるの、アルバートさん! ねぇ!!」
 肩を掴まれてやっとアルバートは首を捩って、相棒を振り返った。
「言ったはずだ。俺が欲しいのは謝罪じゃねぇって」
 それだけ言って、彼はヒューズの手を払い落とすと再度、液体に向き合う。
「何だよ、それ」
 震える吐息が、ヒューズの唇から漏れ出る。
「……頑張ってるじゃないですか」
 ヒューズは振り払われた手を見下ろすと、ぎゅっと拳を作った。
「僕、毎日頑張ってたじゃないですか!」
 顔を上げた彼は、昂ぶる声と共に、アルバートの腕を掴んで無理矢理自分の方を向かせた。今度はしっかと相棒の華奢な肩を掴んだ。
 指が食い込む痛みにアルバートは顔をしかめた。
「どうして、そんなに冷たい態度取るの!? 少しは認めてよ。僕、頑張ってるじゃないですか!!」
 叫んだヒューズは、捨てられた子犬のような目をしていた。
 アルバートはその瞳を真っ直ぐ見つめると、一言問うた。
「――――頑張るって事はそんなに偉いことなのかよ」
 ヒューズは息を引き攣らせた。
 やがて力なく、アルバートの肩から手を引くと、再び深くうなじを垂れる。
 アルバートは、はあ、と長い溜息をつくと、吐き出した吐息以上に外気を吸い込み、声を振り絞った。
「っつか、お前!」
 ビシリと右の人さし指をヒューズに突きつける。
「まだ期限が残ってるのに、僕はダメだー、出来ないー、頑張りましたー、って何だよ、それ!? ありえないだろ!?」
 ヒューズは石のように俯いたまま動かない。
 アルバートはキッとそんな彼を睨め付けると、声高に続けた。
「お前も分かってんだろ? 『頑張った』ことには何の価値もねぇって」
「……楽々とあの〈狂った貴婦人(ルナティックレディ)〉から色を分けて貰えたあなたには分からないんだ。僕の辛さなんて。僕がどれだけ頑張ってるかなんて」
「分かんねぇよ。分かるはずがねぇよ。俺の頑張るとお前の頑張るは根本的に違うからな」
 アルバートは苛立たしげにヒューズの言葉を遮ると、自分の胸に手を当てた。
「俺はやりたいことをやりきるために頑張る。お前みてぇに、何かに許されたいとかそういう保身で頑張ってるわけじゃない!」
(――――――あ)
 言い切ったその時、アルバートの全身に、清風が吹き抜けたような感覚が染み渡った。
『アラベスクは想いの形』
『迷ったならば、内なるアラベスクに問え』
 ウィリアムの言葉が耳の奥に蘇った。
 それは何度も繰り返し考えてきた言葉だったけれど、その時初めて――理解すると言う点で、アルバートは彼の言葉をなぞったのだった。
 それは、ハッグの採色と、ヒューズのことで脇に追いやっていた自身の問題が、晴れた瞬間だった。
「なっ……」
 が、その余韻を味わう暇もなく、アルバートはガチャンと立った音に現実に引き戻された。
「お前、突然、何――――」
 ハッグの液体の注がれたガラス容器を、ヒューズが投げ捨てたのだ。
「ばっ……こらっ、やめろ!!」
 続いて両手に容器を持った彼の腰元に、アルバートは慌てて飛びついたが、ヒューズは意にも介せず、再度びゅんと容器を投げた。
 寮の壁にぶつかり、音を立てて割れる。
 と、ぷん、と臭気が鼻をついた。
 ヒューズは一瞬顔を顰めて、腕で鼻を覆ったが、もう一瓶手にすると、忌々しげな声と共に腕を振るう。
「いい加減にしてよ! 臭いンですよ!」
「いや、臭いのはスマン。悪いと思うから外でやってンだろーがッ」
 アルバートはすかさず謝罪したが、ヒューズは黙然と投げ続けた。
「あああ! やめろやめろ、マジでやめろ。温かいトコに移動すると、臭いが更に――」
「ご立派ですよ。本当に。腹が立つほど、あなたは恰好良いですよ! 迷いなく、自分の想いを貫いてる!! 強い人だ!!」
 わざわざヒューズは容器を日の下の方へと投げた。
「何で、でき上がらないって言うのに、黙々と染めていられるんですか? 諦めないでいられるんですか!?」
 パリンと音を立てて、容器が割れる。
 割れる。割れる……
「どうせ、合格なんてできるはずないのに! こんな――――――っ」
「いい加減にしろ、ヒューズ!!」
 埒があかないと思い至って、アルバートはヒューズの肩を掴むと、振り向けざまに彼の左頬に拳をねじ込んだ。
 会心の一撃だった。
 二日酔いで弱っていたヒューズは、たたらを踏んで退くと、力なく地にへたり込む。
 その彼を、アルバートは仁王立ちでもって見下ろした。
「お前、何がしてぇんだ? 織りてぇのか!? 俺の邪魔がしてぇのか!? どっちだよ!!」
 握り拳を震わせる相棒に、ヒューズは俯いたまま答えない。
「おい、答えろ。どっちだ」
 聞くまでもない問いだ。
 それでもアルバートはじっとその先を待った。
 ヒューズは歯を食いしばった。そっぽを向く。
 やがて唇をつきだすと、拗ねたように答えた。
「じゃ、邪魔したい、です」
「……ほう。よっく分かった」
 こめかみに青筋を浮かべ、アルバートは頷いた。
 両手を胸の前で組み、ゴキンッと指を鳴らす。
「そんな気になれないよう、今からこっぴどく痛めつけてやる」
 アルバートはニッと影のある笑みを浮かべた。ヒューズは頬を引き攣らせた。
「ひっ……」
 響き渡った悲鳴に、長閑な昼時を過ごしていた鳥たちが、驚いて木々から羽ばたいた。
 なんだなんだと寮の窓が幾つも開いたが、鬼の形相で相棒をボコボコにするアルバートに恐怖を感じたのか、はたまた飛び込んできたハッグの臭いのためか、窓は全て一拍の後には音を立てて閉じられた。
「………………くそ。マジでくせぇ」
 ――――とりあえず、昨晩のことを含めた苛立ちを発散させると、アルバートは地に散らばった容器を前に途方に暮れた。
 幸いなことに壺は無傷だったが、問題は今、この陽光にさらされた残骸たちだ。
「どーすんだよ、これ」
 ぶつぶつと文句を垂れながら、アルバートはしゃがみ込むと割れたガラス容器を指先で摘み上げて集め始める。
 ハッグの液体は地に吸い込まれることはなかったから、踏みつけてから、靴の先で掘り返した土をかけた。
「だああ! 部屋ン中まで臭いが――――――あ」
 と、ある一つの残骸を目にしたアルバートは、ゆるりと睫毛を上げた。
 みるみる目を見開き、膝が汚れるのにも関わらず、飛びつくように覗き込む。
「おい。おいおいおい、ヒューズ! 来い! こっち来て、見てみろ!!」
「……動けません」
 頬を上気させ、アルバートは満身創痍で地に潰れたヒューズを振り返った。
 地にプクリと塊を作る液を示して、声を弾ませる。
「蒼になってる。蒼になってンぞ!!」
 彼の指摘通り、黄色じみた液体に小さな蒼が滲んでいた。
 丸底のガラス容器の破片を、一点に集まった陽光が貫いていた。
 ハッグの液は太陽に焼かれ、ぽつりと〈蒼〉く変色していた。