アラベスクに問え!

自称天才染め士、アルバート・グレイの出立(1)

 青空に浮かぶ白い雲が、ゆったりと緑の草原に影を落として流れていく。
 芽吹いたばかりの、丈の短い草を揺らす風は春を含み、まだ冷たいながらも柔らかい。
 平原では牛や羊が地を舐めては口を動かし、その少し離れたところでは、寝そべる二、三の牧羊犬の姿があった。梢のざわめきや小鳥たちの囁きが支配する、眩く、長閑な朝である。
 ――東西を大国に囲まれた、グブラ大陸のちょうど中央に位置する国《ルブナーン》(東方表記・百色国)。
 その最南東ティルス地域圏の小さな村では、首都よりも一足先に外套を脱ぐ者がぽつぽつと出始めていた。長方形の箱型二階建てに、勾配の急なとんがり屋根がのっかった家々の壁には、冬の間、封印されていた農具が手入れをされ立てかけられていた。もうすぐ種蒔きが始まるのだ。
 と、草原で寝そべっていた牧羊犬の一匹が、ピクリと耳を動かし頭を上げた。
 その黒い瞳は、村を背に鉄製の桶を引きずりながらやって来る、小柄な少年を捉えた。
 東方風の襟の高い黒シャツに、同色のズボン。
 その上に、鮮やかな紋様が刺繍された腰巻を巻き、背にはくたびれた革のリュックを背負っている。犬は見慣れた村人の姿にすぐさま警戒を解くと、頭を地に埋め、何事もなかったかのように目を閉じた。
「……ふぅ。やっと見えた」
 そう一息つき、少年は桶を降ろすと、目前の、こんもりと緑の塊を作る森を見やった。
 生命力溢れる、清々とした少年だった。
 スッと通った鼻筋に、切れ長の美しい目。意思の強さが滲む眼光は、見る者に少しきつめな印象を与える。青みがかった黒髪は全体的に短かったが、うなじの辺りに猫の尻尾のような三つ編みが垂れていた。
 少年の名はアルバート・グレイと言う。先月の誕生日で十七歳になった。
「っつーか、なんだって村出てすぐに迷うんだ、俺は」
 彼はそう忌々しげに吐き捨てると、額に滲む汗を袖で拭って再び桶を手にした。自分の背丈より高い草や木々の枝を片手で掻き分け、森の中をずんずん進む。
 首都から流れくるミノア川のせせらぎが聞こえ始めた頃、森一番の巨木に出迎えられ、アルバートは歩みを止めた。
 桶を地に置き、丁寧に一礼する。
 と、それに答えるようにして、巨木の前に繁る茜がざわざわと揺れた。かと思えば、小さな影がぴょこんと姿を現す。
 その生き物は、アルバートの膝丈ほどの大きさで、緑色の雪だるまに手足が生えたような形をしていた。真ん丸の目は黒く、中央には鼻穴が二つあいている。頭には大きな心形の葉を乗せていた。
 森羅万象に宿る命〈精霊〉――その中でも木に宿る精霊「ドライアド」だ。
 一匹がアルバートに駆け寄ると、もう一匹、もう一匹とぞろぞろとドライアドが姿を現した。
「よお」と、アルバートは親しげな微笑みと共に手をあげて――――顔を顰める。
「……何だよ、その嫌そうな面(つら)は。今日は貰いに来たんじゃねぇっつーの。ついでに迷子でもねぇ」
 そう言って肩を竦めてから、背に背負っていたリュックを下ろし、手を突っ込んだ。
「ほい」
 取り出したのは、目を瞠るばかりの緋色の糸玉だ。
「この前、貰った茜で染めた糸。でき上がったからさ。土の精霊たちの餌やりついでに置き土産」
 わらわらと半円を描き、近寄ってきた十数匹の木の精霊らは、不思議そうに顔を傾げた。
「俺……アラベスクの試験受けるって決めたんだ。だから村を出るよ」
 言葉に、木の精霊たちはゆるりと目を瞬かせた。
『アラベスク』――――それは幸運を運ぶ奇蹟の布。
〈精霊の糸〉で織られ、〈精霊の加護〉の込められた特別なものだ。
 アラベスクは、精霊の加護の色を糸にする〈染め士〉と、それを逃がさぬよう布に織り込む〈機織り〉と呼ばれる職人の手によって作られる。
 彼の言う「アラベスクの試験」とは、その〈染め士〉や〈機織り〉になるための、国家資格を取るものだ。
「絶対に受かって、それなりに力をつけたら帰ってくる。その時は、お前らの色をくれよな」
 アルバートは、愛おしさと寂しさのない交ぜになった瞳で精霊らを見た。
 と、彼の手から、精霊の一匹がひょろりと細い手を伸ばし糸玉を取り上げた。顔を近づけ、ふんふんと鼻穴を震わせる。
「な? 綺麗だろ。そこに生えてる茜の根っこから、こんな鮮やかな朱色が採れるんだ。お前らが大切に守ってきた色だよ。……本当、ずっと見てても飽きない色だ」
 などと感慨深そうにしている彼のことなど気にも止めず、糸玉を持っていた精霊は、顔半分ほど口を大きく開くと糸玉にかぶりついた。
「ばっ……食いモンじゃねぇし!」
 それを慌てて取り上げれば、数匹の精霊らが糸を求めてアルバートによじのぼり始める。
「こっ、こらこらこら、上るな! く、くすぐった……うひゃ、ひゃ、だ、ダメだっつの、バカ、ああ、ったく! 服の中に入るな!! って、そっちのお前! リュックにゃもう何も入ってねぇから! あさるなっつの。聞け、こら! ああ、もう、あさるなと――――」
 戯れてくるのとは別に、鞄の中を覗き込んだ木の精霊に、アルバートが制止の声を上げる。と、その時だった。

「ひょげぎゃほうわちゃあああああああっ」

 森に響いた奇声に、アルバートはハッと辺りを見渡した。
 精霊らは一瞬ピタリと動きを止めてから、全員が同じように、ぽてぽてと足音を立てて小川の方に目を向ける。
「……妙な鳴き声の奴がいるな」
 うなじ辺りから服の中に侵入しようとしていた精霊の一匹を剥がし取って地に放ると、アルバートは(鳥か?)と、訝しげに顎を撫でた。
 ガサガサガサッと草木を薙ぎ倒す激しい音が、もの凄いスピードで近付いて来る。
 やがて――――
「あン? 人間?」
 前方の草陰から転び出てきたのは、茶の外套に身を包んだ長身の少年だった。
 年の頃はアルバートと同じくらいだろうか。
 ふわりとカールした金髪に、白磁のような肌。西方出身を思わせる、彫り深く精悍な顔立ちは、今は恐怖に引き攣っている。
 彼はアルバートに気付くと情けない声を張り上げた。
「たたたたたす、たすたすけ、たたた助けてくださいいいい!!」
「誰だァ?――――げっ!!」
 目一杯に涙を溜めた少年は、両手をぶんぶん振って走ってくる。その背を追ってくる、生き物のように膨れ上がった土砂の塊を見て、アルバートは思わず呻いた。
「バッカ野郎! 何処の誰だか知らねぇが、今すぐそれを投げ捨てろッ!」
「それ!? そそ、それってどれ!?」
 少年の手が握りしめるものを目敏く見つけたアルバートは、声を荒げる。
 が、少年はあたふたするだけで、一向に手放そうとしない。
「右手に掴んでる瓶だよ! お前、どこの土を持ってきて――ああ、埒があかねぇ!」
 アルバートは盛大に舌打ちをすると、駆けてくる少年との距離を見計らいつつ、持ってきていた桶を引き寄せた。
「左に避けとけ!!」
「はっ、はいぃぃ!」
 返事を聞き、アルバートは左足を一歩前へ踏み出すと、腰を捻って桶を振った。
 黒く湿った物体が曲線を描いて、ぶちまけられる――
「ぎゃっ!!」
 そこに、両手で頭を抱えるようにして少年が飛び込んできたから、アルバートは慌てると同時に、呆れ果てた。
「何で右に来てンだ、バカ!」
「僕からしたら左じゃないですか――って、臭(くさ)っ!!」
 抗議の声を上げた少年は、頭からかぶったものの臭いに驚愕した。
「な、何なんですか、これ。土?――あ! 生ゴミだ、うわっ、汚(きたな)ッ!!」
「確かに。まだ肥料になっていないからな」
 アルバートの冷静な答えは少年の耳には届いていない。
 彼は慌てふためき髪や外套から、粘ついて悪臭を放つ黒い厨芥を叩き落とす。
 そんな彼の背後に、ドドドドと地響きのような音が迫った。
「え……?――――ひぃっ」
 振り返って、少年は息を飲んだ。
 彼を追ってきていた土砂の塊は、今では不思議なことに跡形もなく消えていた。
 が、それとは別に土煙を上げて迫り来る一団があったのだ。
 大きさは木の精霊と同じくらい。尖った耳に、丸顔の中央には渋柿にそっくりの鼻、その左右にはキラキラと輝く小さな目がくっついていた。
 人間のように西方風のシャツとズボンをまとい、赤い尖り帽子を被った醜悪なそれは、四精霊の一、土の精霊「ノーム」――――
「いやぁああああああああ!!」
 ……悲痛な叫び声が、平穏な森を駆け抜ける。
 数十匹の土の精霊たちは、アルバートが放った物体〈肥料になる予定の生ゴミ〉に飛びつくと、長い舌でベロンと掬い上げた。次いでそれを暫く口中でもごもごと転がしてから、勢いよく吐き出す。
 そうこうして精霊は仲間たちと戯れ始めたから、そのまっただ中にいる少年は、たまったものではない。
「あー…………」
 アルバートは目を泳がせると、右手の拳を控え目に振り上げた。
「ま、負けんなー?」
 そうして、さりげなく、その場から距離を取った。